kanom-35° ご来訪、誠にありがとうございます。
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走り出せば、、、果たして間に合うのだろうか。
一体何に?
4.2.3が見つからない。幾度も探したのだけれど見つからない。
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自主規制という名の圧力で多分消されている
中島みゆき「4・2・3」
♪
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
リポーターは日本人が手を振っていますとだけ嬉々として語り続ける
担架の上には黒く煤けた兵士
腕は担架からぶら下がり 足首がグラグラと揺れる
兵士の胸元に赤いしみが広がる
兵士の肩に彼の銃が ためらいがちに仲間によって載せられる
担架はそれきり全速力でいずこかへと運び出されてゆく
(中略)
しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう
この国は危い何度でも同じあやまちを繰り返すだろう
平和を望むと言いながらも日本と名の付いていないものにならば
いくらだって冷たくなれるのだろう
慌てた時に 人は正体を顕わすね
♪
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
リポーターは日本人が手を振っていますとだけ嬉々として語り続ける
担架の上には黒く煤けた兵士
腕は担架からぶら下がり 足首がグラグラと揺れる
兵士の胸元に赤いしみが広がる
兵士の肩に彼の銃が ためらいがちに仲間によって載せられる
担架はそれきり全速力でいずこかへと運び出されてゆく
(中略)
しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう
この国は危い何度でも同じあやまちを繰り返すだろう
平和を望むと言いながらも日本と名の付いていないものにならば
いくらだって冷たくなれるのだろう
慌てた時に 人は正体を顕わすね
ペルー人質事件
とらよし様の代弁?
ペルー日本大使公邸占拠事件の流れを事件発生から追ってかきます。
1990年に日系ペルー人のフジモリ大統領が就任した。
経済は混沌し、貧富の格差が激しいペルーを
日本の経済協力もえて経済の立て直しをはかるとともに、
その社会不安の中でテロが続発した
ペルー社会の治安を回復するため
テロ鎮圧政策をすすめてきた中で、事件は発生する。
1996年12月17日(日本時間12月18日)
トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員達14名が
ネストル・セルパをリーダーとして
天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた
リマの駐ペルー日本大使公邸を隣の空き家から
塀を爆破して、侵入し、襲撃した。
大使公邸が瞬く間に占拠され、数百人が人質となった。
セルパ達の要求は主に以下の4つであった。
①収監されているMRTAの仲間の釈放.
②フジモリ政権の経済政策の変更.
③アマゾン地域までの移動の際の人質の連行.
④戦争税(身代金)の支払い.
フジモリ大統領は即時の武力行使を検討したが、
日本政府の「平和的解決」の要望もあり、
12月21日には
「囚人の釈放要求は拒否する。しかし人質全員を解放すれば、武力行使は行わない」とフジモリ大領は述べる。
大使公邸内ではあまりの人質の多さにセルパは困っていて、
ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて、
12月22日
セルパは女性や老人など人質225名を解放し、
①大統領のメッセージは「降伏」を求めるもので、受け入れられない。
②政府と無関係の人質をクリスマスの祝意として解放する。
③残る人質の解放は、MRTAメンバーの釈放が条件である。
と声明を出す。
12月23日
新たな人質解放予定者の134名の名が読み上げられるが、
その時リストに入っていたウイッチ司祭の名前を呼ばれたが、
聖職者としての勤めを果たしたいと、人質とともにとどまることを望んだ。この行動は皆の賞賛を呼ぶ。
12月28日
政府代表のパレルモ教育相、国際赤十字のミニング代表、シプリアーニ大司教とセルパとの第1回目の直接対話。
その後、人質達は解放され続け、
1997年1月下旬までに、数名のフジモリ政権閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と青木盛久大使など駐ペルー日本大使館員、松下電器や三井物産などの日本企業駐在員ら
72名の人質に絞られた。
この72名は事件集結まで、大使公邸で過ごすことになる。
日本人人質は24名。
1月下旬、ペルー国家警察の装甲車が大音量の音楽を流しながら、
大使公邸前を行進することが多くなる。
この間、様々な差し入れが行われたのであるが、
人質のペルー軍出身の大臣が
差し入れにボソボソと語りかける姿が見受けられた。
「あの人、頭おかしくなったのか?」と
思える光景であり、
青木大使はその行動が何を意味するのか分からなかった。
実はこれにはわけがあった。
ペルー軍出身の大臣は
「フジモリ大統領が大使公邸に運び込まれる物資の中に盗聴器を仕掛けないわけがない」
と思ったのだが、何に盗聴器が仕掛けられているかが
わからないので、あらゆる差し入れの品に語りかけていたのだ。
その大臣がある日、差し入れのギターに
「これが聞こえたら合図の曲をかけてくれ」とささやくように
語りかけたところ、その翌日、合図の曲がかかり、
この日から、大使公邸内とペルー当局の盗聴器を通じた
連絡が始まる。
1月27日、日本政府が慌てる事態が発生する。
いつものようにペルー国家警察の装甲車が大使公邸前を
行進を始めた。その行進に参加していた隊員のひとりが
邸内のMRTAの女性に向かって卑猥な動作をして挑発した
ために怒ったMRTAが発砲し、装甲車に命中、
一触即発の事態になる。
武力衝突を懸念した日本政府は、ペルーとの首脳会談を
行うことを判断し、
2月1日
東京・リマの中間地点であるカナダのトロントで
橋本総理大臣とフジモリ大統領の首脳会談が行われ、
その後の共同記者会見で、
・平和的解決の追求、
・セルパらMRTAとペルー政府の予備的対話の開始、
・寺田大使の保証人委員会オブザーバー参加
以上のことで意見が一致し、
2月11日
大使公邸内で、ペルー政府のパレルモ教育相とMRTAの
第1回予備的対話が行われた。
ただ、その一方で、フジモリ政権は武力突入への準備を
着々と進めていた。
1月下旬に、
フジモリ大統領の意を受け、
大使公邸と同じ間取りのセットを造り特殊部隊が
突入のシミュレーション訓練を積み重ねていた。
フジモリ大統領は地下トンネルを掘り
そこから突入することを発案した。
その作戦名は「チャビン・デ・ワンダル作戦」。
ペルーに、世界遺産のチャビン遺跡があり、
そこには地下回廊があり、そして神殿がある。
その構造にヒントを得て、
「チャビン・デ・ワンダル作戦」をフジモリ大統領が考案した。
「チャビン・デ・ワンダル作戦」実行に向けて、
大使公邸の地下のトンネル掘削作業を着々と進めていた。
そして、大音量の音楽を流す理由は、このトンネル掘削作業の
音をセルパ達に気づかれないようにするためでもあったのだ。
一方で、フジモリ大統領はキューバを訪問し、
カストロ議長にMRTAの14名を受け入れを要請し、
平和的解決も模索していた。
大使公邸内は、人質の72名とMRTAの14名、96名が
過ごし続けているのだが、
長時間同じ場所で、時間と空間を共有すると
自然に人と人との交流が深まってくる。
セルパはペルーが抱えている社会問題を切々と語る。
それに対して、人質の日本人の1人は
「すべてに同意できるわけではないが、考えさせられるものが
あった」と後述している。
国籍の異なる人質達の間で、日本語、スペイン語、フランス語の
語学教室が行われる。それになんと
MRTAの若いメンバーが参加していた。
MRTAの14名のうち6名は
アマゾンの奥地から500ドルで
アルバイト感覚で参加していた。
この仕事はすぐに終わるだろうと思っていたようだ。
彼らはこの仕事の話が来た時、
バスで行けるところだと思っていたようで、
その仕事の代金を
家族のための食費にあてることを考えていた。
また、篭城しているMRTAのほとんどが
12歳から18歳までの少年達で、
うち2人は15歳の女の子だった。
少年らは文字も書けず、
世界地図は見たことがなく、日本がどこにあるかも知らない。
そのような少年少女達は
人質達が持つ知性や文化に惹かれていく。
日本から差し入れられた
カップラーメンに感動して、
「家族の土産にする」と言うMRTAの少女がいた。
そして、MRTAのある少年は日本語教室の勉強会に
熱心に参加し、
ひらがな、かたかな全部と、漢字も少し書けるようになり、
日本の写真集を拾い読みできるまでになり、
「おはようございます」と挨拶するようになっていた。
そして、ある日
MRTAのある少年が絵を描いていた。
それを見たある人質のひとりが、
「君は絵が上手い、勉強すれば画家にだってなれる」と
誉めると、その少年は喜び、目を輝かせた。
・・・・・・・・・
日本時間4月23日、現地時間4月22日・強行突破・・・
これがこの歌です。
ペルー日本大使公邸占拠事件の流れを事件発生から追ってかきます。
1990年に日系ペルー人のフジモリ大統領が就任した。
経済は混沌し、貧富の格差が激しいペルーを
日本の経済協力もえて経済の立て直しをはかるとともに、
その社会不安の中でテロが続発した
ペルー社会の治安を回復するため
テロ鎮圧政策をすすめてきた中で、事件は発生する。
1996年12月17日(日本時間12月18日)
トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員達14名が
ネストル・セルパをリーダーとして
天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた
リマの駐ペルー日本大使公邸を隣の空き家から
塀を爆破して、侵入し、襲撃した。
大使公邸が瞬く間に占拠され、数百人が人質となった。
セルパ達の要求は主に以下の4つであった。
①収監されているMRTAの仲間の釈放.
②フジモリ政権の経済政策の変更.
③アマゾン地域までの移動の際の人質の連行.
④戦争税(身代金)の支払い.
フジモリ大統領は即時の武力行使を検討したが、
日本政府の「平和的解決」の要望もあり、
12月21日には
「囚人の釈放要求は拒否する。しかし人質全員を解放すれば、武力行使は行わない」とフジモリ大領は述べる。
大使公邸内ではあまりの人質の多さにセルパは困っていて、
ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて、
12月22日
セルパは女性や老人など人質225名を解放し、
①大統領のメッセージは「降伏」を求めるもので、受け入れられない。
②政府と無関係の人質をクリスマスの祝意として解放する。
③残る人質の解放は、MRTAメンバーの釈放が条件である。
と声明を出す。
12月23日
新たな人質解放予定者の134名の名が読み上げられるが、
その時リストに入っていたウイッチ司祭の名前を呼ばれたが、
聖職者としての勤めを果たしたいと、人質とともにとどまることを望んだ。この行動は皆の賞賛を呼ぶ。
12月28日
政府代表のパレルモ教育相、国際赤十字のミニング代表、シプリアーニ大司教とセルパとの第1回目の直接対話。
その後、人質達は解放され続け、
1997年1月下旬までに、数名のフジモリ政権閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と青木盛久大使など駐ペルー日本大使館員、松下電器や三井物産などの日本企業駐在員ら
72名の人質に絞られた。
この72名は事件集結まで、大使公邸で過ごすことになる。
日本人人質は24名。
1月下旬、ペルー国家警察の装甲車が大音量の音楽を流しながら、
大使公邸前を行進することが多くなる。
この間、様々な差し入れが行われたのであるが、
人質のペルー軍出身の大臣が
差し入れにボソボソと語りかける姿が見受けられた。
「あの人、頭おかしくなったのか?」と
思える光景であり、
青木大使はその行動が何を意味するのか分からなかった。
実はこれにはわけがあった。
ペルー軍出身の大臣は
「フジモリ大統領が大使公邸に運び込まれる物資の中に盗聴器を仕掛けないわけがない」
と思ったのだが、何に盗聴器が仕掛けられているかが
わからないので、あらゆる差し入れの品に語りかけていたのだ。
その大臣がある日、差し入れのギターに
「これが聞こえたら合図の曲をかけてくれ」とささやくように
語りかけたところ、その翌日、合図の曲がかかり、
この日から、大使公邸内とペルー当局の盗聴器を通じた
連絡が始まる。
1月27日、日本政府が慌てる事態が発生する。
いつものようにペルー国家警察の装甲車が大使公邸前を
行進を始めた。その行進に参加していた隊員のひとりが
邸内のMRTAの女性に向かって卑猥な動作をして挑発した
ために怒ったMRTAが発砲し、装甲車に命中、
一触即発の事態になる。
武力衝突を懸念した日本政府は、ペルーとの首脳会談を
行うことを判断し、
2月1日
東京・リマの中間地点であるカナダのトロントで
橋本総理大臣とフジモリ大統領の首脳会談が行われ、
その後の共同記者会見で、
・平和的解決の追求、
・セルパらMRTAとペルー政府の予備的対話の開始、
・寺田大使の保証人委員会オブザーバー参加
以上のことで意見が一致し、
2月11日
大使公邸内で、ペルー政府のパレルモ教育相とMRTAの
第1回予備的対話が行われた。
ただ、その一方で、フジモリ政権は武力突入への準備を
着々と進めていた。
1月下旬に、
フジモリ大統領の意を受け、
大使公邸と同じ間取りのセットを造り特殊部隊が
突入のシミュレーション訓練を積み重ねていた。
フジモリ大統領は地下トンネルを掘り
そこから突入することを発案した。
その作戦名は「チャビン・デ・ワンダル作戦」。
ペルーに、世界遺産のチャビン遺跡があり、
そこには地下回廊があり、そして神殿がある。
その構造にヒントを得て、
「チャビン・デ・ワンダル作戦」をフジモリ大統領が考案した。
「チャビン・デ・ワンダル作戦」実行に向けて、
大使公邸の地下のトンネル掘削作業を着々と進めていた。
そして、大音量の音楽を流す理由は、このトンネル掘削作業の
音をセルパ達に気づかれないようにするためでもあったのだ。
一方で、フジモリ大統領はキューバを訪問し、
カストロ議長にMRTAの14名を受け入れを要請し、
平和的解決も模索していた。
大使公邸内は、人質の72名とMRTAの14名、96名が
過ごし続けているのだが、
長時間同じ場所で、時間と空間を共有すると
自然に人と人との交流が深まってくる。
セルパはペルーが抱えている社会問題を切々と語る。
それに対して、人質の日本人の1人は
「すべてに同意できるわけではないが、考えさせられるものが
あった」と後述している。
国籍の異なる人質達の間で、日本語、スペイン語、フランス語の
語学教室が行われる。それになんと
MRTAの若いメンバーが参加していた。
MRTAの14名のうち6名は
アマゾンの奥地から500ドルで
アルバイト感覚で参加していた。
この仕事はすぐに終わるだろうと思っていたようだ。
彼らはこの仕事の話が来た時、
バスで行けるところだと思っていたようで、
その仕事の代金を
家族のための食費にあてることを考えていた。
また、篭城しているMRTAのほとんどが
12歳から18歳までの少年達で、
うち2人は15歳の女の子だった。
少年らは文字も書けず、
世界地図は見たことがなく、日本がどこにあるかも知らない。
そのような少年少女達は
人質達が持つ知性や文化に惹かれていく。
日本から差し入れられた
カップラーメンに感動して、
「家族の土産にする」と言うMRTAの少女がいた。
そして、MRTAのある少年は日本語教室の勉強会に
熱心に参加し、
ひらがな、かたかな全部と、漢字も少し書けるようになり、
日本の写真集を拾い読みできるまでになり、
「おはようございます」と挨拶するようになっていた。
そして、ある日
MRTAのある少年が絵を描いていた。
それを見たある人質のひとりが、
「君は絵が上手い、勉強すれば画家にだってなれる」と
誉めると、その少年は喜び、目を輝かせた。
・・・・・・・・・
日本時間4月23日、現地時間4月22日・強行突破・・・
これがこの歌です。
Re:ペルー人質事件
>kappa様
コメントと丁寧な解説をありがとうございます。
思えば1990年、インターネット人口はごくわずかだったことと思います。
私が本格的にネットを利用しだしたのは、97年くらいだったかなぁ。
当時は人質が解放されたことを無邪気に喜んで降りましたが、このペルーの人質事件の真相を知ったのは、ずっと後のことでした。
凄くショックでしたね。私たちに知らされる事実は、ほんの僅かなモノなんだって。
MRTAを掃射したのはペルーの警察だけど、日本大使館関係者たる人質達は、何もしなかったのか。
ただ傍観し、見ていただけなのか。
心があれば、彼ら(MRTA)の命を乞うことだって出来たのではないかとね。
ええ、本気の「心」さえあれば。
>また、篭城しているMRTAのほとんどが 12歳から18歳までの少年達で、
うち2人は15歳の女の子だった。
その二人の女の子のうちの一人は、見せしめに、四肢を・・・そして男達に、、、。この先は言うまい。
「4・2・3」を紹介したいと思ったのは、みゆきはんは「国境なんて関係ないんだよ」って、日本人に訴えたかったと思うんです。
けど20年経つと、その日本人の中でも特権を持つ(と勘違いしてる)日本人が、虐げられている日本人を差別する時代になってしまったことを問いたかったから。。。
代弁どうもありがとです。*^-^*
コメントと丁寧な解説をありがとうございます。
思えば1990年、インターネット人口はごくわずかだったことと思います。
私が本格的にネットを利用しだしたのは、97年くらいだったかなぁ。
当時は人質が解放されたことを無邪気に喜んで降りましたが、このペルーの人質事件の真相を知ったのは、ずっと後のことでした。
凄くショックでしたね。私たちに知らされる事実は、ほんの僅かなモノなんだって。
MRTAを掃射したのはペルーの警察だけど、日本大使館関係者たる人質達は、何もしなかったのか。
ただ傍観し、見ていただけなのか。
心があれば、彼ら(MRTA)の命を乞うことだって出来たのではないかとね。
ええ、本気の「心」さえあれば。
>また、篭城しているMRTAのほとんどが 12歳から18歳までの少年達で、
うち2人は15歳の女の子だった。
その二人の女の子のうちの一人は、見せしめに、四肢を・・・そして男達に、、、。この先は言うまい。
「4・2・3」を紹介したいと思ったのは、みゆきはんは「国境なんて関係ないんだよ」って、日本人に訴えたかったと思うんです。
けど20年経つと、その日本人の中でも特権を持つ(と勘違いしてる)日本人が、虐げられている日本人を差別する時代になってしまったことを問いたかったから。。。
代弁どうもありがとです。*^-^*
音と言えば…
はっきりした理由は良くわからない…。だけど、衝撃の映像を見てからというもの、頭の中で、ビートルズのイン・マイ・ライフが繰り返し流れてる。長調で作曲された曲なのに、どうにも言い表せない切ない響きが含まれていることを、感じてたからかもしれません。
In My Life ~ The Beatles
There are places I'll remember
All my life though some have changed
Some forever not for better
Some have gone and some remain
All these places have their moments
With lovers and friends I still can recall
Some are dead and some are living
In my life I've loved them all
But of all these friends and lovers
There is no one compares with you
And these memories lose their meaning
When I think of love as something new
Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more
Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more
In my life I love you more
In My Life ~ The Beatles
There are places I'll remember
All my life though some have changed
Some forever not for better
Some have gone and some remain
All these places have their moments
With lovers and friends I still can recall
Some are dead and some are living
In my life I've loved them all
But of all these friends and lovers
There is no one compares with you
And these memories lose their meaning
When I think of love as something new
Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more
Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more
In my life I love you more
まあ!まあ!
人は忘れることで救われている。
そして知らないことで救われる。
皆、無意識でそれを知っているから、忘れっぽくなったり、知らんぷりをしたりするのだろう。
まあ、それも悪い事じゃない!?
父が10年以上前にペルーに旅行に行った帰り、我が家に来て言ったことを思い出す。
「屋根のある家に住んでいるだけで十分幸せ。」
Re:まあ!まあ!
>donjara様
コメントありがとうございます。
本当に苦労人でいらっしゃること!
こんな達観したご意見には、なかなか出会えません。
起こってしまったことを咀嚼し消化しなければ、忘れることすら出来ないものですから。
>「屋根のある家に住んでいるだけで十分幸せ。」
そうなんですけどね、人は一度贅沢を味わうとなかなかソコに立ち返れなくて。。。
うちのガスファンヒーターがとうとうぶっ壊れたみたいで、今日はベンチコートを着込んで震えとります(苦笑)。
コメントありがとうございます。
本当に苦労人でいらっしゃること!
こんな達観したご意見には、なかなか出会えません。
起こってしまったことを咀嚼し消化しなければ、忘れることすら出来ないものですから。
>「屋根のある家に住んでいるだけで十分幸せ。」
そうなんですけどね、人は一度贅沢を味わうとなかなかソコに立ち返れなくて。。。
うちのガスファンヒーターがとうとうぶっ壊れたみたいで、今日はベンチコートを着込んで震えとります(苦笑)。
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