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木は
最後まで木でなければいけない
夢の中で幻想の水辺で
いつも黒々と
つめたくそびえていなければいけない
木が木でなくなるとき
葉が葉でなくなるとき それは

天に向かつてのびる
一本の直線にもなつてしまつて
はてしないその虚像に
地上の生命(いのち)は胸しぼられるのだ

いつまでも
木は木でなければいけない
海辺の風に星屑のぬれた賛歌に
木はいつまでも木のままに
梢ざわめかせときに落葉をふりまき
いつまでも立つていなければいけない
木がそのふとした無聊に
さまざまな問いの答えとなつて
ささくれた木肌をさらすとき
人はすでに木のもとに憩い
木の蔭に語らうこともできないのだ

木は
いつまでも木でなければいけない
とある少女の名を彫りつけられ
朝まだき少年の唇の夢をうけとり
木はいつまでも
そうして木でなければいけないのだ


辻征夫さんという詩人の18歳の時の詩だそうです。

人は皆、寄る辺を求めるけれど、家族以外のところで、寄る辺になる決意をすることがあるのだろうか。
少女の名を刻まれる痛みを、笑って祝福できるだろうか。
少年の夢の実現のため、力を貸すことができるだろうか。


詩人たらんと願ふものの第一に究むべきことは、自分自身を完全に知ることです。
自己の魂を探求し、それを検討し、それを試み、それを把握することです、それを知つてしまつたら、
それを培わねばなりません、、、

(中略)

「見者」たるべし、「見者」となるべし、と私は云ふのです。
「詩人」はあらゆる感覚の、久しい、宏大な、熟考された不覊奔放化によって「見者」となるのです。
恋愛の、苦悩の、狂気のありとあらゆる形式です。
己れ自身を捜し求め、己の裡にある一切の毒物を汲み尽くし、その精髄のみを保存するのです。


彼は、同じ18歳の時に、ランボーのこの一言に震撼したそうな。

自分にこんな息子がいたら、果たして寄る辺となれるだろうか。

レモングラスを噛むがごとく、詩を読む。
租借できない繊維から、ほろ苦い清涼感ある香りが口に広がる。
よくわからないまま、少し癒される。。。

「落日」

「わたしは沈丁花が」

「わたくしの名前」

どれも好きな詩。

タゴールの詩のようでもあるけど、もっと近寄り易い。

己れ自身を捜し求め、己の裡にある一切の毒物を汲み尽くし、その精髄のみを保存するのです。


これが詩人の定義ならば、今は詩人の居ない時代。
悲しいことです。。。

あぁ、そうか、

詩人がもう居なくなってしまったことを知らないから、探して迷うのね。
美しい詩がないから、つまらない笑いに飛びついてしまうのね。。。





しかし、それは倒錯ではなかろうか。
倒錯した世界に、癒しと希望はあるのだろうか。

嗚呼、主よ、主よ。
あなたは真理を明らかにされたはずでしたのに!!
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深夜、会社のすぐ近くで殺人事件が起こったそうな。。。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2011011902000189.html

ゆうべは、なんだか人恋しくて、飲み友達のコジでも誘ってみようかしらん、、、などと思っておりました。
けど、いつの間にか就業時間をはるかに超えて、したくもない残業をしてる有様。

こんな時間じゃ誘えやしない。

ちぇっ、、、っとばかりに、馴染みの安居酒屋へ一人で行ってみようかとも思いましたが、『注文していた本が入荷しました』との書店からの連絡が有り、居酒屋から旋回して書店へ。

書店で本を受け取っても未だ「飲みたい気分」は払拭できず、飲み屋で書を開く楽しみに惹かれはしましたが、ゆうべは何故か帰ろうという気になりました。
 
妙齢の大トラ女二人がそろうと、ついつい終電時間も忘れてしまいます。
ゆうべ、そんな状況が繰り返されていたら、当然この現場に遭遇していてもおかしくないわけだ!

そんな事件があったとは露知らず、今朝方出勤すると、この事件のことでもちきりでした。

ここで初めて事件のことを知ったわけだけど、その事件の重大さとか、会社のすぐ近くで起こったとかよりも、きゃらきゃら笑いながら話せる同僚に唖然とし、背筋が寒くなりました。
飛び交っていた会話は言うまい。。。とにかく朝から凹んだ。

なんで笑って話せるんだ?!

私のほうがおかしいのだろうか?

ランチタイムは、いつもこの事件現場周辺でした。
中国人同士のいざこざが発端の事件らしい。。。

会社から東へ5分も歩くと、そこには雑多なアジア系のコミュニティーがあります。
飲食店やコンビニの店員さんも、圧倒的に日本人ではないアジア諸国の人々。
身近な事件だけに、昨日の事件に巻き込まれた人の中には、見知った人とか、すれ違った人が居るかもしれない、、、そう考えると、私には笑って話す胆力は皆無である。

これは深刻な事態に触れまいとして、回避し笑いに変えてしまう一種の能力なのだろうか。
どこまでも深刻は煙たがれ、軽薄だけがコミュニケーションツールなのだろうか。




袖触れ合うも縁のうち

等といいますが、袖触れ合う二人にだけ「縁」が存在するのだろうか、などと考えてしまう。
この事件に巻き込まれた人と、【私が】会っているかどうかなど関係ない。

彼らを誰よりも見ていたのは「景色」だ。
彼らを拒まず、誘い、同化させた景色。つまり背景色。

袖が触れようが触れまいが、それを見ている景色は全てを容認している。

一番傷ついているのは、亡くなった(名も知らぬ)彼を抱擁し、彼の居る景色を喜んで映し出した「景色」そのものではなかろうか。。。

景色を構成する重要なファクターが消えたことを、悲しまずにおられようか。。。

絶対に笑えない。

風景を擬人化したつもりで、つぶやいてみる。。。

引き続き、自分なりに死刑制度について考えてみます。
どちらかと言えば反対派なのだけど、辺見庸さんの講演を機に、自分のバラストを探ってみようかなと。

まず、辺見庸さんの講演を聞き終え思ったのが、私たちが日常耳にする言葉に、現実を想起させる生々しさが宿っているかということ。
「死刑」という言葉に、これから執行される刑に、どれだけの人が携わり、どういう現実が起こっているのかを、あらん限りの想像力をもって思考する態度がなければ、人としてあるべき姿というのは見えてこないと思う。

自分を蚊帳の外に置いていてはいけないと思う。
論理的な分析は苦手なので、自分なりの考査をしてみます。
これが私のバラストの位置であり、重みであるという観点だけでもって。
辺見庸さんの講演を聞き終えた後でも、未だ積極的な死刑廃止論者とは成り得ていないけれど、
まず2点、考査に当たり、始めの一歩みたいなもの。

①死刑制度による凶悪犯罪抑止力性
②加害者・被害者・従事者の相関性

それを私の鳥脳でもって考えてみようと思う。

- ①死刑制度による凶悪犯罪抑止力性 -

私は現在の死刑制度は犯罪抑止には繋がらないと思う。
なぜなら、「死」に至る経緯(実態)が厚いベールに隠されているから。
日本の死刑は「絞首刑」だけれど、私たちが知り得る情報はそれのみ。
死刑囚が突然宣告を受け、刑を執行されるまで、どれだけの時間を要するのか、最期の時間まで何を考えていたのか、刑場までの廊下を何を思って歩いていたのか、目隠しをされ、首に縄がかけられる瞬間まで、どれほどの恐怖を感じたのか、そんな事柄は全く知ることは出来ない。
執行のニュースも密やかに短い言葉で伝えられるだけ。

私は、本当に「死刑」を抑止の材料としたいのなら、江戸時代のように「見せしめ」として公開しなければ、恐怖が恐怖として正しくは伝わらないと思う。
けれど実態は、人が死に至る「残酷な絵図」は隠蔽されています。
意味不明なモラルという名のもとに。
加害者の人権擁護のためなのか、残虐シーンによって薄弱たる私たちが精神障害を引き起こさないための配慮なのか、一体どちらなのだろう。
いやいや、国家が人を縊る淫靡性を隠したいというのが本音ではないだろうか。

刑の執行が隠蔽されているため、人々の想像力は損われ、拡張しない。
「打ち首獄門」の公開刑場を各所で見ていた先人は凄いと思う。
私たちはソレを静視できるだろうか。
公開処刑なるものがこの日本であるとすれば、貴方はそこに駆けつけるだろうか?見たいと思うだろうか?
その場に立ち会えるだろうか?
一人の生きた人間がくびり殺される瞬間に立ち会えるだろうか?
駆けつける者は「非人道的!」「悪趣味!」などとあらゆるバッシングを受けることだろう。
モラルという名のもとに。
でも、その実「死刑制度」を容認出来るのはなぜなのだろう。

マスコミは何故伝えないのだろう。。。つまり、それほど惨憺たる現象、国家にある日突然無理やり命を奪われる奈落。突然目の前に現れる奈落の深淵を突きつけられる恐怖。
しかし「死刑」という言葉に、「凶悪犯」というイメージだけが植えつけられ、刑の残虐性を白濁せしめる。
「死刑」という言葉は、冷たい無機質感しか与えていない。
想像力を提示しない言葉である。

その結果、何も知らないままに我々は「死刑」「死刑」と叫び声を上げる。
では、なぜ、部外者たる者ですら、「死刑」と声を上げるのだろう。
死体を見る胆力もないくせに。
「死刑」という言葉に、もはや人の命の質感を伴わないのだ。質感を伴わない言葉に、果たして抑止力があるだろうか。


- ②加害者・被害者・従事者の相関性 -

「死刑」の言葉から連想されるものは、せいぜい「凶悪犯罪を犯したためにいずれ死ぬことになる犯罪者」というイメージだろう。
けれど、その「凶悪殺人犯」の内面すら私たちは知らない。
全く知らない。
起訴された時点で、被害者と加害者との面会は認められない。刑が確定すれば、受刑者は肉親と弁護士との接見しか認められない。

「死刑」の言葉そのものは、冤罪の可能性を提示していない。実は温和で何処にでもいる人物だったという可能性も、もちろん内包していない。
「死刑」という烙印を押されると同時に、人間性も可能性も一切が否定され、そのまま娑婆から消える。

犯罪の動機、現在の心境、どれも顧みられることなく忘れられてゆく。
そしてそのまま、刑務官のコツコツとした靴音が自分の部屋の前で止まるまで、何時まで続くか判らない、恐怖に苛まれる。

その恐怖を想像した上で、尚「この者に死刑を」と叫ぶことが出来るのは、被害者であり、その遺族ではないだろうか。
どうせ密やかに行われている穢の儀式である。
いっそ、被害者遺族に奈落の底を空けるボタンを押させ、本懐を遂げさせてやればいいではないか。
そこまでの気持ちがあるなら。

厚い壁と柵に閉ざされた、狭い空間の人間関係を思う。。。
刑務官も囚人も皆人である。
かわす言葉は多くないであろうけど、規則正しい生活の中で、刑務官は収監されている人に潜む残虐性を探しているのだろうか。
単調な毎日であるけども、毎日宣告におびえて過ごす者は、決して赦されるべきではない存在なのだろうか。
決して簡単なことではないけれど、加害者と被害者が交流し、詫び、赦し合えるなら、それでいいのではないか。

死刑執行の際、死刑囚には自分が望む宗教に則して、お坊さんの説諭やらキリスト教者によって悔悟の時が与えられるそうである。
最後の言葉を聞き、冥土へ送りだすそうである。
宗教家なら、なぜ「止めろ」と言わないのだろう。「止めろ!今すぐ止めろ!」と大騒ぎする者が一人くらいいてもいいではないか。いや、居たかもしれない、、、でも知り得ないのだ。
悪い魂は、葬られるべきなのか。
では、悪い魂と決めるのは誰か、、、「国家」ではないか。
都合が悪くなれば、簡単に法を犯し嘘をつく、この国家ではないか。


死刑制度の賛否を問うには、被害者心理も無視出来ません。
だから、私は、問題提起したものの、死刑制度には未だ消極的な反対者です。

ただ思うのは、「死刑」という言葉、その影に隠れた残酷な実態を知らずに、死刑制度存続を唱えるのは、
「中国憎し!北朝鮮憎し!」と声を上げる極右的な人々と、同じバラストを感じるのです。
自分は絶対に殺人現場も死体も見ることなく、誰かに任せて痛みを知ることを拒む態度などは。。。

今年も凄惨な事件が数多くありました。
ご遺族の方におかれましては、一刻も早く心の傷が癒されますように。


 




年末、ワイドショーも時間が拡大されて特番みたいになってますね。
つまらない、本当につまらない。
掃除をしながら、テレビを見るともなしに点けていたら、時の人、マツコ・デラックスの登場!!
もう、迫力満点^^

今年もまた、よくわかんない人が出てきたなぁ、、、くらいにしか思っていなかった。
大体こういう脂肪だらけの巨漢の人好きじゃないし。
だけど、今日はそのマツコ・デラックスが山本晋也監督との対談(雑談みたいなものだけど)、今年の重大ニュースを語り合っているときに気炎を上げたトピックが、北朝鮮の韓国砲撃ニュース。

「もうさ、驚いたのなんのって、ひっくり返りそうになったわよぉ!
 本当に戦争になるかと思ったものぉ!
 けどさ、インターネットの問題もいろいろ言われているけどさぁ、やっぱり便利よねぇ。
 っていうか、あーた、インターネットが無かったらさ、情報が錯綜して、戦争かどうかも判らないうちに暴動が起きるわよ。
 ほんと、馬鹿みたいな情報ばっかだけどさぁ、情報が拾えるってことはいいことよぉ。
 20年前だったら、(暴動が原因で)本当に戦争になってたかもしんないじゃなぁぃ?」

なんてのたまってた。
それを聞いて、俄然この人が大好きになっちゃった。
うん、うん、正しいよ!

I某都知事がさ、性同一性障害について、とんでもない暴言を吐いていたけどさ、何言ってやがんだい!
なんかさ、最近正論を言える人って、おねぇキャラが多いような気がする。
なんだっけ、なんたらマングローブとか。

けど、道化(ピエロ)キャラでいなくていいと思う。
なんだか悲哀を感じるんだよね。。。
それがウリなんだと言われれば、なんとも言えないんだけどさ。。。

普通に主張出来ない世の中なんだよねぇ。。。
今日は少々気が重い話を。
死刑反対を活動をされているFORUM90という団体は、結成から20年にもなるそうです。
全く知りませんでした。
名古屋にも支部があるそうです。
全く知りませんでした。
アムネスティーのサイトをここでもリンクを貼っているけど、死刑制度の是非論については、あまり深く考えたことがありませんでした。
私も死刑廃止論に賛同するけど、アムネスティーとかFORUM90が言う「懺悔し、赦しを乞う者に対し国家がその権力をもって死に至らしめる制度には反対」という積極的な態度ではありません。
私は「果たして死刑は極刑なのだろうか?」と疑問を投げる立場です。
自殺者が増え続けている昨今、自分を殺す行為に及ぶ人々にとっては、「死」の恐怖よりも「生」の恐怖が勝っていたということではないかと考えてしまうので。
「死」すら安住と考えてしまう向きがある以上、私はやすやすと犯罪者に安住の死を与えたくはない。
酒もない、煙草もない、セックスもない、恩赦も仮釈放もない終身刑があればいいと思ってる。
性悪で陰湿は私は、「快楽も希望も無い生活の中で、自分の罪の重さだけを噛み締める生活を味わえばいい」などと、漠とした考えを持っています。
だから、アムネスティーだろうがFORUM90だろうがが主催するこういう集会には、全く興味が無かったのだけど、昨日は辺見庸さんが講演すると知り日比谷公会堂に駆けつけました。
このためだけの東京と名古屋の往復だったのだけど、大変有意義でした。

辺見庸さんの語る言葉がとてもよかった。

言葉とは大事なものです。しかし、私たちは永らく言葉を軽く扱い過ぎてきました。だから、言葉が私たちを見捨てる時代になってしまいました。嘘を嘘と見破れない世の中、見破れないのは、言葉を大事にして来なかった私たちを、言葉が見放したとも言えます。

昨日の講演を一字一句覚えているわけではないけれど、こういうことをおっしゃっておられました。
この言葉に、ヨハネの福音書の冒頭を思い出さずにはいられませんでした。

In the biginning was the Word, and the Word was with God, and Word was God. He was with God in the biginning. Through him all things were made; without him nothing was made that has been made. In him was life, and that life was the light of men. The light shines in the darkness has not understood it.
John 1 : 1-5
 

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書1章:1-5節
 

キリスト教には、三位一体という概念があります。それは父と子と精霊。
三位一体なのだから、本来分かてないないものなんだけど、父とは俗に「神」といわれている存在。子はイエス。精霊というのがわかりにくいのだけど、神とイエスを定義づける「何か」だと思うのです。
神とイエスという骨子を肉付ける「何」か。
ヨハネの福音書ではそれを「言葉」だと言っています。ヨハネの手紙ではそれを「愛」だと言っています。

辺見庸さんが何度もおっしゃっていた、「言葉」と「バラスト」。
一見、死刑制度とは何の関係も無い様にも思えますが、私は己の内面を知る上で、非常に有意味でした。
バラストとは、船底に積む重荷のこと。
辺見庸さんは、それを個人の思想の根幹という意味で表現しました。

死刑制度についての賛否に関しては、今の私は何ら発する意見を持ち合わせていませんが、辺見さんがおっしゃる「バラスト」については大いに共感しました。
この日、辺見さんは、7月に死刑執行を命じた千葉元法相を痛烈に批判しておりました。
死刑という刑が確定された死刑囚に、刑を執行したという行為においては、当然だとの声があるのもごもっともですが、辺見さんは千葉氏の翻意を批判しておられました。

「アムネスティ議員連盟」事務局長をつとめ「死刑廃止を推進する議員連盟」にぞくしていたこともある千葉さんはかつて、杉浦正健法相が「信念として死刑執行命令書にはサインしない」と話したあとにコメントをとりさげたことにかみつき、死刑に疑問をもつなら死刑制度廃止の姿勢をつらぬくべきではなかったか、と国会で威勢よくなじったことがある。

その千葉元法相の翻意の根幹、つまりバラストを批判しておられました。
まったく異論などありませぬ。
死刑制度云々よりもかつて自分が発した言葉を簡単に裏切り、全く悪びれておらず、それどころか、死刑執行のその場に立会い、その後、メディアの前に立って質疑応答をしていました。
最高のパフォーマンスだ。権力の胡散臭さを感じてしまう。

言葉が軽い。
辺見さんは(千葉元法相の)「バラストは何処にあるか」と言った。
その言葉を知らない私なら「無神経」としか言えない。
もっと軽い言葉として、今の若者達は「KY」とか言うのだろう。

言葉が軽い。
それで通じてしまう世の中が確立しつつあるのが恐ろしい。
1984で語られている、ニュースピークそのものではないか。

大衆ウケする軽薄な言葉を追って、つまらない略語を蔓延せしめた結果、我々が言葉に見放される時代にしてしまったんだ。
厚顔無恥で白々しい嘘ばかりを並べる昨今の政治家達は、言葉を大切にしない我々が生んでしまったモンスターなのだろう。

この集会にあたり、辺見庸さんのブログから全文引用

     鏡のなかのすさみ
      ーー千葉景子さんと絞首刑

     (削除いたしました)


「すさみ」とか「言葉の重さ」とかなどと言うと、偉そうな社会科学者さんが「科学に基づいていない」「抽象的過ぎる」などと食いつきそうな言論かもしれない。
何しろ彼らは社会科学という宗教に酔いしれ、盲信しているのだから。

私は冷かな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかける事が出来るからです。

私は夏目漱石が作中の登場人物に語らせたこの言葉が大好きです。
冷ややかな頭で新しい事を口にするような輩ばかりが目立つこの時代は一体何なんだ!?
どれもこれも大都会TOKYOから発せられるもの。
昨日、両側に松林を感じつつ、霞ヶ関のビル密集地帯をタクシーの中で眺めている時、タクシーの運転手さんが言いました。
「この風景、いいでしょ?如何にも東京って感じで。」

-そうだね、何年も何年も何年も、地方を踏みつけて繁栄した都市だね。
-このビル群は、アタシには不気味な墓標にしか思えないんだけどね。

言葉が神であった時代を取り戻したい。

先月に東京を訪れた時は、満月に近い美しい月を仰ぐことが出来ました。
月の美しさに思わず見入ってしまったのだけど、その周囲の光景は異様でした。
高層ビルの隙間に、ぽっかりと満ちた月が浮かんでいるのである。
田舎では有り得ない光景である。

本来は、山の上、海の上、小さな集落の上に輝く月が、都会ではビル群に挟まれているんだ。
さぞかし所在なさげな心持ちではなかろうかと思うのだけど、目一杯、ひかり輝いているんだ。
義なるものが不義なるものを精一杯押し返すかのようだった。

東京人はこの光景を「異常」とは思わないだろうか。
「異常」と思える人が居るとすれば、その人はきっと夜空にもう一つの月を発見して悩むのだろう。
過去がゆっくりと改竄されていることに、恐怖を感じることが出来る人なのだろう。

聴講料、1000円也。
交通費東京-名古屋間の20,000円も、全然惜しいと思わなかった。
それくらい、辺見さんの言葉が聞きたかった。
日比谷公会堂の収容人数はどれくらいだろう?ざっと見積もって500名くらいだろうか。
★訂正:参加者は1800人近かったそうです。すみません、私の推量ほどアテにならないものはありません★
満席だった。
恥ずかしながら開演から5分ほど遅れて到着した私は、2階席へ。
目深に野球帽を被り、ぽつぽつと語る辺見さんの言葉に聞き入りました。
あっと言う間の90分でした。

けど、周りには、ぐうぐうとすやすやと寝ている大人がいっぱい。
出席する意思を持って来ているはずなのに、何故ここで眠っていられるのだろう。
辺見さんが語る、こんなに大切な言葉を聞きたいがために、名古屋からやってくる者にとっては、全く呆れた光景だった。
けれど、熱心にメモを取る人々も大勢居ました。
メモを取る熱心な人々というのは、若者でした。。。この世にも、まだ救いがあるように思われました。。。


しっかし、「バラスト」かぁ、、、。
私も、人は誰でもそういうものを持っているべきだとは思っているのだけど、私はせいぜい「軸・shaft(シャフト)」としてしか捉えられなかった。
船底の重荷、バラストがあるなら、マスト(帆)もあるわけで、辺見さんのマストは一体何なのだろう。
そこに大きな男と女の性(さが)の違いを見た感じ。






★追記(2010.12.24)★

このエントリーとほぼ同じ内容を感想として主催者に送ったところ、ソレが辺見庸さんに転送されたようで、辺見さんご自身から、お返事をいただきました。
驚き桃の木でございますっ!!

2010年も終盤にさしかかり、私自身にとっては嫌悪した事象も数多くありましたが、それを帳消しにしてしまうくらい、忘れえぬ出会いの機会にも恵まれました。
どんどん暗くなっている感が否めない世の中ですが、私は、2010年に感謝します。

何度も何度も、「ありがとう」と言います。

そして、それと同じくらい、予期せぬ不運に見舞われてしまった人々のために祈ります。

誰もが心に平安を保てる日が来るまで、馬鹿と言われようが、偽善者と言われようが、世間知らずと言われようが、祈り続けます。


★追記(2010.12.30)★

辺見庸さんの論文を掲載していましたが、ご自身のブログからは削除されておりました。
である以上、私もここに掲載し続けるのは控えるべきと判断し、削除いたしました。

★メモ★

国際会計基準なるものが制定され、日本でも大企業は2011年から導入のための準備に入るとの声も聞かれる。
長らく世界の会計基準はイコール米国会計基準のようなものだった。

EU連合がその米国一極集中を許諾しないともとれる、国際会計基準の骨子を読んで、不安材料を残さないわけではないけれど、大企業にのみ適用されるなら大いに賞賛する。

2004年の時価会計導入に迎撃する基準としては遅いけれども、まだ遅すぎるわけではない。
まだ掌握出来たわけではないので全面的に賛成するわけではないけれど、国際基準と日本基準の相違の中で、大いに興味を持ったのが、未消化有給休暇を負債に引当てるって文言。

これは画期的!

前年度に付与された有給休暇を消化していない社会人はゴマンと居る。
私だって、2年前に付与された有給休暇をやっと消化して、その権利を抹消されずに済んだとこ。
会計が人事に切り込んだところが斬新で素晴らしい。

要は、

「はいはいオタクの会社、有給消化率低いデスネー。
ってーことは、人材不足なんじゃないの?ん?ん?
だから当然の受けるべき有給を消化できないんだよねぇ。
それってさ、目に見えない人権費削減に等しいよね、有給休暇が消化出来ないってことは、休んでも受けるべき給与支給がなされてないってことだから、粉飾に値するよ、、、」

って言ってるわけ。

我が社のような小さな会社でも、そこで働く者はアルバイトさん、派遣さんを含めれば100人以上。

その100人にそれぞれ未消化有給が20日以上あれば、これは給与の未払に相当し、経常利益を不当に歪めるものである、、、そんな見解なのだ。

労働基準法も改定になりました。

そんな折に、この国際会計基準導入となれば、派遣労働法も改正されるかもしれない。
賃金を抑えようとしても、浮かせた支出は負債として引当てられ、BSにもPLにも影響するのだから。
EU連合による会計基準に、アメリカも経団連は反発しながらも、まずは日本で合意(東京合意)となったそうな。

大企業に阿るTAKENAKAのような馬鹿は、法人税減税を声高に唱えるけれど、うひゃひゃ、ざまーみろっ!ってんだ。

まだまだ詰めなきゃなんない事項はあるけれど、不当な低賃金で働く人々を救済できる基準であればと切に願います。

拮抗する勢力ってあるんだ、、、なんだかホッとした。


David Bowie - It's No Game (Part 1)



それにしても、Bowieの歌は難しいな。

聞き取りにくいうえに、独特な表現と言い回し。
この曲は、グルーピーみたく彼を追い回していたマスコミへの大いなる皮肉な賛歌かしらん。。。
 

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