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(いや、たかだか2泊3日のことで、紀行と言うには大袈裟なんだけどね・笑)
気ままな旅から緩慢な日常へ帰ると、どうも意識が散漫になります。
なので、話が突然ぶっ飛ぶやもしれませんが、どうかご容赦ください。
広島と名古屋、私にとっては(住んでいないという意味での)非日常と日常。
アタシが何歳まで生きるかは、神のみぞ知るところだけど、その人生における2日を
非日常の中で過ごしたというだけで、散漫になってしまうなんて笑っちゃう。
空洞の頭が一生懸命日常に適応させようと、フル回転で脳を働かせているのでしょう。
錆付いて鈍くなった歯車を動かす、ギシギシと唸る音が聞こえてきそうです。
8月7日、午前11時に広島着。
原爆ドームと平和記念公園は南口を出て、路面電車に乗るのが便利です。
広島の交通事情に一片の知識も無い私は、新幹線を降りてすぐに南口へ。
のろのろ、よたよた、目的地をなかなか見出せず、おぼつかない足取りで。
それでも、泥縄式に覚えた路面電車の乗り場を勘に任せて探し出せちゃうんだから
ビバNIHON(≠ビバのんのん)!
路面電車に揺られながら車窓の風景を眺め、長閑なひと時を呆っと過ごしました。
64年前に起こった惨劇の一片でも拾おうと息巻いていたためか、すでに注意力は散漫になっていました。
夏空、陽炎、蝉時雨。
冷房が効いた車内で、1945年8月7日のこの辺りはどんな様相だったのだろう?
意識は完全にトリップし、かの時へ誘う。
夏空、陽炎、蝉時雨。
首筋に汗が滲むほどの暑さなれど、頭ン中は目的地に近づくにつれ概ね冴えながら、
若干成り行き任せ。
「原爆ドーム前」で降車すべきところを、一つ手前の「紙屋町西」で降りてしまいました。
のっけからこんなユルい間違い(笑)。
さもありなん、初めて歩く街だもの。
広島駅の案内所でいただいた地図だけを頼りに、南の元安橋に向かって歩く。
てくてく。てくてく。てくてく。
暑い、それにしても暑い。
正午近かったので、暑いのは覚悟していたけど、日の下では名古屋と変わりないくらい暑い。
それでも救いなのは、日陰に入れば凌げること。
(名古屋では眩しさのみが軽減されるだけ。熱気と湿度は、陰日向なく襲うのだ)
鯉城通りの隣りの道を下って平和記念公園を目指す道すがら、否応無しにありきたりに設置された自動販売機に目が行ってしまう。
紫だ、パープルだ!
「SANFRECCE(広島)」のロゴとキャラクターが、ベンディング・マシーンを彩ってる。
おったまげた。
名古屋ではこんな現象は無いぞっ!
ナンだ?この盛り上がりはっ!?
降車したのが、サンフレッチェのスポンサーであるDEODEOの近くだったからなのかもしれないけど、
市街地ではこんな自動販売機で溢れていました。
・・・ずるいぞ広島!
恨めしさと羨ましさが交錯するような気持ちをかかえて、元安橋を渡る時、
橋の中央で、ギター一本で平和を訴えるストリート・ミュージシャンが歌っていました。
20代半ばくらいの若者である。
風貌は今時仕様。
歌の内容は64年前。
『一瞬のうちに~ィ たくさんの・・・たくさんの命がァ~』
炎天下でこんな事を歌っていた、、、というより、絶叫していた。
歌の内容に魅せられたのか、ただならぬ雰囲気に圧倒されたのか、
かつ消え かつ結びて
オーディエンスが居なくなることは無い。
元安橋を渡りきると、右手には、有名な原爆の子の像が。
高々と折鶴を掲げている。
PEACE PEACE PEACE
そんな叫びが響いてきて、滲ム。
高校生の時の修学旅行で来ていたはずなのに、初めて見るような感覚。
夏空、陽炎、蝉時雨。
この像の傍らには、無数の千羽鶴が奉納されています。
初めてこの地を訪れた時は、色とりどりの千羽の折鶴が連なってところ狭しとひしめき合っていました。
今は、、もっと自由です。
派手な彩色で「PEACE」とだけ書かれた絵に目が留まり、近づいてみると
それは何羽もの折鶴によって描き出される絵文字だった。
「peace」
その文字は赤の折鶴。
その周囲は、空を翔ける無数の虹色の折鶴。
多くの平和への祈りが集約される場で、その思いの強さに圧倒され、声にならない言葉が涙となって溢れてくる。
本当に言葉が出てこない。
ただ我武者羅に「わーーーっ!」っと叫びたい。
ぐずぐずと泣いていたのは私だけ。
周囲の人々は、もっと凛として鐘を突き、背筋をピンと伸ばして合掌し、笑顔で千羽鶴を奉納していました。
そうだ、過去に拘ってはいけない。
何時の日も、人は未来に向かっているのだから。
過去には鎮魂を、、、未来には祈りを、、、。
当たり前のことを、皆、上手に上手に上手に。。。
下手なのはアタシだけ?
ぐらりと視界が歪んだ気がした。
25年前にも、この像を見ていた。
修学旅行の時の記憶。。。
(修学旅行なんて行かない、行きたくない!)
(だって、一生に一度の想い出になるかもしれないじゃないの・・・)
(どーしてそんなことが言い切れるのっ?!)
それはそれは、小娘のぎゃんぎゃん、ぴーぴー。
騒々しく欠席を訴えました。
屁理屈を言って養母を困らせたのには、訳がある。
このやりとりのひと月くらい前に、養父の余命が僅かだと知ったから。
(修学旅行中に、養父が死んじゃうかもしれないじゃない!!それが嫌で嫌でたまんないから、行きたく無いのに)
想いを伝えるのは昔から苦手だ(笑)。
断固として旅行に参加しない意思表明をしていたのに、翻意して参加したのは、次兄の乱暴な一言。
「うるせーっ!何が不満だっ!? 堂々と行きゃいいだろっ、この馬鹿野郎ッ!!」
この次兄はね、11も歳が離れていて今や53歳のオッサンなんだけどね(笑)、
養父が亡くなった時は、まだ28歳だった。
養父が残したモノを受け継ぐに当たり、その重さに人知れず涙していた、、、ってことは
随分後になって聞いた話なんだけど。
次兄とは当時、部屋が隣りだったので、夜遅くまでテレビゲームをしたり、借りてきたビデオを見たりして、
他愛も無い喧嘩もしたけど、きゃっきゃっと笑いながら過ごす時間の方が圧倒的に多く。。。
養父の病のことを知ってからは、(酔って遅い毎日にもかかわらず)居間から階段を上がりそのまま自分の部屋に行けばいいのに
時折、私の部屋の扉を開け、頭を「ぽんぽん」っと軽く叩いてから自室に戻って行った。
ひっそりと泣いているつもりだったのに、万事がお見通し。
そんな兄ちゃんが烈火の如く怒ったのには、心底驚いた。
んなワケで、しぶしぶ参加した高校時代の修学旅行は、当然のことながら
アタシに何かを植え付けはしなかった。
原爆ドームを見ても、原爆の子の像を見ても、記念資料館を見ても、当時の私は
死の床に就いている養父のことだけが気がかりで
平安を保てない私には、「平和」の文句は全く響かなかった。
広島の皆さん、ごめんなさい。
四半世紀の時を経て、ひたすら平和を願う此の地に、64年もの間、恒久的な祈りを捧げ続ける貴方がたの前では
恥じ入ってしまう程に小さき私は、小さな平和への祈りを携えてお参りしてきました。
此の写真の先は平和記念資料館で、逆側が、平和モニュメントとその先に臨まれる原爆ドームです。
平和記念公園周辺ガイド
Stryper_ first love_The passion
Stryper
マイナーなグループを引っ張って来ちゃいました。
このグループは「Stryper」というグループ名の後に、必ず付加するクレジットがあってね。。。
それが
ISAIAH53.5
旧約聖書・イザヤ書53章5節。
この文章からグループ名をとったんだってさ。
現代訳として有名なthompsonバージョンのその部分を探しても、stryperなんて単語は載っていない。
もっと古い文語タイプの文章が基なんだろうね。
But he was pierced for our transgressions,
he was crushed for our iniquities;
the punishment that brought us peace was upon him,
and by his wounds we are healed.
しかし、彼は
私たちのそむきの罪のため刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
先の大戦は、わたしたちが生まれるはるか前の出来事で、64年の月日を経て
ゆっくり過去の出来事になりつつあります。
だけど忘れちゃいけない。
広島での惨劇は、ともすれば他地方でのうのうと生きている、わたしたちの父母や祖父母に降りかかったかもしれない。
それを思うとね、咎なくして磔にされたあの人と重なる。。。
Eloi,Eloi,lama sabachthani?
わが神、わが神、あなたは何故私をお見捨てになったのですか・・・。
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