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5月2日、ロックシンガーの忌野清志郎さんが亡くなりました。享年58歳。
喉頭癌克服から1年あまり。
壮絶な闘病生活の後の、あまりにも若過ぎる死。
脳裏に浮かぶ人物が居ました。
養父のこと。。。
大正15年1月23日生、昭和59年9月8日没、享年59歳。
死因は肺癌。
酒と煙草とJAZZと読書を愛した、孤高の人でした。
生きていれば83歳の爺様なんだけど、つくづく生きているうちに一度は一緒に飲んでみたかったなぁ。。。
17歳の夏(若い!)、高校の期末試験を終えて学校から帰り、夕食を終えて脱力していた時に、
突然、養母が切り出しました。
養母 「この間ね、お養父さん、血痰を吐いたでしょ?あれ、検査してみたらさ、病院から通知が来てね。。。」
私 「・・・・・・・・。」
養母 「『癌センターで精密検査してください』って書いてあったから、検査したんだよね。。。」
私 「・・・・・・・・。」
養母 「そしたらね、、、お養父さん、肺癌なんだって。。。」
私 「!!!」
養母 「余命3ヶ月だって、だから覚悟しておきなさい。」
覚悟?
覚悟ってナニ?
(何言ってるんだろ、この人、頭おかしくなっちゃったんじゃないの?ヘラヘラ笑いながら言うことなの???)
実際、養母はその話を告げた時笑ってました。
人間、受け入れがたい事実を告げられた時は、悪い冗談と思いたいがために笑っちゃうみたい。
最近の養父の疲れ具合、妙な咳、痩せ具合。。。
私には全て符号しました。
( なんで笑ってるんだろ、、、この人。。。)
養母に非常な嫌悪感を抱きました。
切ないけれど養父と養母は、毎日喧嘩ばかりしていました。
でも昭和一桁生まれのご婦人の、旦那に対する苦労話などどれも特別ではなく、誰もが同じ様な体験をしていたように思います。
環境の違いはあれどもね。
お互いの一挙手一投足に、それぞれがケチをつけて喧嘩ばかり。
「そんなに嫌いなら、別れればいいのにさ」
お互いがお互いを貶し合う場面は、ちょっとキツイ。
養ってもらってる身として、どちらかの味方になるなんて選択など出来ないですから。
なんだか家に帰るのが嫌だなぁ。。。
そう思い始めて、養父とも養母とも極力会話を避けてた時期は第二反抗期。
育ててくれた両親を疎ましく思っていた頃に、養父の病が発覚しました。
半年くらい、会話を避けていた時期のこと。。。
「余命3ヶ月」
その宣告はずっしりと重く、養父の余生にこれまでの感謝をどう応えようと思いつつも、反抗期真っ只中の自分である。
急に態度を軟化させたら、養父に病気がバレちゃうかもしれない。
でも、でも、でも!
わずかに残された養父との3ヵ月を平静を装って、今まで通り避け続けるのか、
急に態度を軟化させて、不審に思われながらも優しく接するべきなのか、
当時17歳の小娘には、検討もつかずオロオロしっぱなし。
でも、養母は違いました。
あれだけ悪態ついてたくせに、養父の病を機に、献身的に看病を続けました。
ま、愚痴をこぼすことも多々ありましたけどね(笑)
養父の横暴ぶりに自殺を考えたのも一度や二度ではないというのに、養母の看病に徹する姿勢には
本当に驚きました。
午前8時~13時まで仕事、簡単に食事を済ませ車で30分の病院に行き、2時~5時までの見舞い&世話。
医者の当初の見立てでは「余命3ヵ月」でしたが、養母の献身で1年半長らえました。
あれだけ喧嘩ばかりしていたのに。。。
普段の態度や言葉からは到底伺い知ることなど出来ない、苦労を共にしてきたからこその
悪態なのかと思えば、それは深い愛というより「絆」なのでしょう。
養父の臨終の際、既に意識は混濁し、誰の呼びかけにも応えられなくなった頃。
学校を早退して駆けつけた私が、
「お父さん・・・」
精一杯の言葉を発した時、閉じていた目を明け、苦しい中で言ってくれた言葉が
「オイ、頑張れよ。」
名を呼んでくれた最期の言葉でした。
「頑張れ」なんて陳腐な言葉。
まったく、笑っちゃうくらい陳腐だよ!
でも、涙が出てきやがった。
泣いたらお父さんが居なくなっちゃうことを認めること。。。
必死で堪えてたのに、どうしても止められない。
ああ、お別れの時が来たんだ、、、
そう思っても「ありがとう」の一言はどうしても言えなくて、代わりに養父の手を力いっぱい握りしめました。
この手の感触は、絶対に忘れないでおこうって。
17年間、慈しんでくれた手なんだなって。
養父が臨終の間際にしたことは、養母へ手を合わせたこと。
発することの出来ない気持ちを、精一杯。。。
本来なら楽しいはずの高校生活なんですけど、私は高校生活の記憶がほとんどありません。
高校生活=養父の闘病なのだ。
部活、進学問題、憧れの先輩、、、
そんな話題で青春を謳歌してる同級生を、羨ましいとも思わず冷めて見ていましたね。。。
ま、これも苦いながらも大切な経験であったと思います。
今では立派なオバサンですけどね、小娘の頃もあったのだ(笑)。
後日譚
別に養父の遺品を整理していたわけでもないのですけどね、養父の生前、精米工場として活躍していた場所が
いつしか倉庫となっちゃって(笑)、雑多な荷物が所狭しと占拠していました。
元旦那さんとの別居を機に、新たな荷物を運び入れ使えるものを品定めしている時に、偶然書棚から
若き日の養父の日記を見つけました。
(米穀)組合員との会話、組合との決別、そんな苦悩が綴られた日記で
酔って養母に当たり散らした影には、こんな苦悩があったのかと初めて知った次第。
養母に、『お父さんの日記を見つけたよ』と言って差し出すと、
「何?何これ?」と言って興奮状態。
パラパラとめくって、養父の筆跡を確かめると、まるで少女みたいに日記をぎゅーっと胸に抱いたのだ。
まったく、喧嘩ばかりだったのにさ、養父のことが大好きで、今でも愛し続けてるんだよね!
お父さん、男冥利に尽きるじゃない?むふふふふ。
生まれ変わっても、また夫婦になれるといいね。
もちょっとお互い素直になってさ、、、なんて思っちゃった(笑)
REBECCA MAYBE TOMORROW
YOUTUBUで「never too late」が探せなかったのば残念。
母の日は過ぎちゃったけど、養母に「可愛いよ」って言いたくなったのだ。。。
憎たらしい時もあるけどね(笑)
喉頭癌克服から1年あまり。
壮絶な闘病生活の後の、あまりにも若過ぎる死。
脳裏に浮かぶ人物が居ました。
養父のこと。。。
大正15年1月23日生、昭和59年9月8日没、享年59歳。
死因は肺癌。
酒と煙草とJAZZと読書を愛した、孤高の人でした。
生きていれば83歳の爺様なんだけど、つくづく生きているうちに一度は一緒に飲んでみたかったなぁ。。。
17歳の夏(若い!)、高校の期末試験を終えて学校から帰り、夕食を終えて脱力していた時に、
突然、養母が切り出しました。
養母 「この間ね、お養父さん、血痰を吐いたでしょ?あれ、検査してみたらさ、病院から通知が来てね。。。」
私 「・・・・・・・・。」
養母 「『癌センターで精密検査してください』って書いてあったから、検査したんだよね。。。」
私 「・・・・・・・・。」
養母 「そしたらね、、、お養父さん、肺癌なんだって。。。」
私 「!!!」
養母 「余命3ヶ月だって、だから覚悟しておきなさい。」
覚悟?
覚悟ってナニ?
(何言ってるんだろ、この人、頭おかしくなっちゃったんじゃないの?ヘラヘラ笑いながら言うことなの???)
実際、養母はその話を告げた時笑ってました。
人間、受け入れがたい事実を告げられた時は、悪い冗談と思いたいがために笑っちゃうみたい。
最近の養父の疲れ具合、妙な咳、痩せ具合。。。
私には全て符号しました。
( なんで笑ってるんだろ、、、この人。。。)
養母に非常な嫌悪感を抱きました。
切ないけれど養父と養母は、毎日喧嘩ばかりしていました。
でも昭和一桁生まれのご婦人の、旦那に対する苦労話などどれも特別ではなく、誰もが同じ様な体験をしていたように思います。
環境の違いはあれどもね。
お互いの一挙手一投足に、それぞれがケチをつけて喧嘩ばかり。
「そんなに嫌いなら、別れればいいのにさ」
お互いがお互いを貶し合う場面は、ちょっとキツイ。
養ってもらってる身として、どちらかの味方になるなんて選択など出来ないですから。
なんだか家に帰るのが嫌だなぁ。。。
そう思い始めて、養父とも養母とも極力会話を避けてた時期は第二反抗期。
育ててくれた両親を疎ましく思っていた頃に、養父の病が発覚しました。
半年くらい、会話を避けていた時期のこと。。。
「余命3ヶ月」
その宣告はずっしりと重く、養父の余生にこれまでの感謝をどう応えようと思いつつも、反抗期真っ只中の自分である。
急に態度を軟化させたら、養父に病気がバレちゃうかもしれない。
でも、でも、でも!
わずかに残された養父との3ヵ月を平静を装って、今まで通り避け続けるのか、
急に態度を軟化させて、不審に思われながらも優しく接するべきなのか、
当時17歳の小娘には、検討もつかずオロオロしっぱなし。
でも、養母は違いました。
あれだけ悪態ついてたくせに、養父の病を機に、献身的に看病を続けました。
ま、愚痴をこぼすことも多々ありましたけどね(笑)
養父の横暴ぶりに自殺を考えたのも一度や二度ではないというのに、養母の看病に徹する姿勢には
本当に驚きました。
午前8時~13時まで仕事、簡単に食事を済ませ車で30分の病院に行き、2時~5時までの見舞い&世話。
医者の当初の見立てでは「余命3ヵ月」でしたが、養母の献身で1年半長らえました。
あれだけ喧嘩ばかりしていたのに。。。
普段の態度や言葉からは到底伺い知ることなど出来ない、苦労を共にしてきたからこその
悪態なのかと思えば、それは深い愛というより「絆」なのでしょう。
養父の臨終の際、既に意識は混濁し、誰の呼びかけにも応えられなくなった頃。
学校を早退して駆けつけた私が、
「お父さん・・・」
精一杯の言葉を発した時、閉じていた目を明け、苦しい中で言ってくれた言葉が
「オイ、頑張れよ。」
名を呼んでくれた最期の言葉でした。
「頑張れ」なんて陳腐な言葉。
まったく、笑っちゃうくらい陳腐だよ!
でも、涙が出てきやがった。
泣いたらお父さんが居なくなっちゃうことを認めること。。。
必死で堪えてたのに、どうしても止められない。
ああ、お別れの時が来たんだ、、、
そう思っても「ありがとう」の一言はどうしても言えなくて、代わりに養父の手を力いっぱい握りしめました。
この手の感触は、絶対に忘れないでおこうって。
17年間、慈しんでくれた手なんだなって。
養父が臨終の間際にしたことは、養母へ手を合わせたこと。
発することの出来ない気持ちを、精一杯。。。
本来なら楽しいはずの高校生活なんですけど、私は高校生活の記憶がほとんどありません。
高校生活=養父の闘病なのだ。
部活、進学問題、憧れの先輩、、、
そんな話題で青春を謳歌してる同級生を、羨ましいとも思わず冷めて見ていましたね。。。
ま、これも苦いながらも大切な経験であったと思います。
今では立派なオバサンですけどね、小娘の頃もあったのだ(笑)。
後日譚
別に養父の遺品を整理していたわけでもないのですけどね、養父の生前、精米工場として活躍していた場所が
いつしか倉庫となっちゃって(笑)、雑多な荷物が所狭しと占拠していました。
元旦那さんとの別居を機に、新たな荷物を運び入れ使えるものを品定めしている時に、偶然書棚から
若き日の養父の日記を見つけました。
(米穀)組合員との会話、組合との決別、そんな苦悩が綴られた日記で
酔って養母に当たり散らした影には、こんな苦悩があったのかと初めて知った次第。
養母に、『お父さんの日記を見つけたよ』と言って差し出すと、
「何?何これ?」と言って興奮状態。
パラパラとめくって、養父の筆跡を確かめると、まるで少女みたいに日記をぎゅーっと胸に抱いたのだ。
まったく、喧嘩ばかりだったのにさ、養父のことが大好きで、今でも愛し続けてるんだよね!
お父さん、男冥利に尽きるじゃない?むふふふふ。
生まれ変わっても、また夫婦になれるといいね。
もちょっとお互い素直になってさ、、、なんて思っちゃった(笑)
REBECCA MAYBE TOMORROW
YOUTUBUで「never too late」が探せなかったのば残念。
母の日は過ぎちゃったけど、養母に「可愛いよ」って言いたくなったのだ。。。
憎たらしい時もあるけどね(笑)
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よくがんばったね・・・
う~ん
うちの小娘にはとうてい無理だな
我が家の父と母も
それはしょっちゅう
けんかばかりしてましたが
最期は頼り切ってましたね。母が・・・
やっぱり夫婦なんだなって思いましたよ
笑うしかないとき
ありますよね
これから闘おうって時に
泣いてらんないもん
つよくて、かわいい、女の人は
私のあこがれの人です
あわびさま
しっかり遺伝してるよ~♪
うちの小娘にはとうてい無理だな
我が家の父と母も
それはしょっちゅう
けんかばかりしてましたが
最期は頼り切ってましたね。母が・・・
やっぱり夫婦なんだなって思いましたよ
笑うしかないとき
ありますよね
これから闘おうって時に
泣いてらんないもん
つよくて、かわいい、女の人は
私のあこがれの人です
あわびさま
しっかり遺伝してるよ~♪
Re:よくがんばったね・・・
>ぱーるぴあす様
コメントありがとうございます。
いえいえいえいえいえいえいえいえ。
両親の喧嘩の前でも、養父の病気の前でも、「頑張った」ことなど一つもありません。
解決法など到底見出せないまま、オロオロしていただけです。
「頑張る」ことが出来るのは、解決策があるからこそです。
あの頃私がしていたのは、自己努力ではどうにも解決できない事に対する
自己憐憫以外の何物でもありませぬ~(笑)。
うまく言えないのですけど、養父の病を悲しむ傍らで、それ以上に自分に降りかかった不幸を嘆いていた感じ。
甘ったれた子供でしたよ、まったく(笑)
最期の最期に言わなくっちゃいけなかった言葉が出なかったのも、自己憐憫の所為。
>う~んうちの小娘にはとうてい無理だな。
「自分には無理」だと思うことは人それぞれで、アタシにはとうてい乗り越えられない試練でも
ぱーるぴあす様なら楽々クリアー出来ちゃうかもしれません。
逆も然り。
そして娘さんにも然り。
人様と自分を比較する必要もないですよ。
でも、私にはぱーるぴあす様の娘さんは無敵艦隊にも思えますネ(^^)
コメントありがとうございます。
いえいえいえいえいえいえいえいえ。
両親の喧嘩の前でも、養父の病気の前でも、「頑張った」ことなど一つもありません。
解決法など到底見出せないまま、オロオロしていただけです。
「頑張る」ことが出来るのは、解決策があるからこそです。
あの頃私がしていたのは、自己努力ではどうにも解決できない事に対する
自己憐憫以外の何物でもありませぬ~(笑)。
うまく言えないのですけど、養父の病を悲しむ傍らで、それ以上に自分に降りかかった不幸を嘆いていた感じ。
甘ったれた子供でしたよ、まったく(笑)
最期の最期に言わなくっちゃいけなかった言葉が出なかったのも、自己憐憫の所為。
>う~んうちの小娘にはとうてい無理だな。
「自分には無理」だと思うことは人それぞれで、アタシにはとうてい乗り越えられない試練でも
ぱーるぴあす様なら楽々クリアー出来ちゃうかもしれません。
逆も然り。
そして娘さんにも然り。
人様と自分を比較する必要もないですよ。
でも、私にはぱーるぴあす様の娘さんは無敵艦隊にも思えますネ(^^)
名曲です
代わりと言ってはなんですが。
プリンセスプリンセス - パパ
http://www.youtube.com/watch?v=mAfbSKnbA5M&feature=related
ギターの中山加奈子が亡き父へのメッセージとして作詞した「パパ」。
砂糖さんと娘さんにも良い曲だと思います。
PRINCESS PRINCESS 「M」 プリンセスプリンセス
http://www.youtube.com/watch?v=PwEY1gtIj7o&feature=related
プリンセスプリンセス - パパ
http://www.youtube.com/watch?v=mAfbSKnbA5M&feature=related
ギターの中山加奈子が亡き父へのメッセージとして作詞した「パパ」。
砂糖さんと娘さんにも良い曲だと思います。
PRINCESS PRINCESS 「M」 プリンセスプリンセス
http://www.youtube.com/watch?v=PwEY1gtIj7o&feature=related
Re:名曲です
>獅子様
コメントありがとうございます。
『パパ』も素晴らしい曲ですね~。
この歌を口ずさむだけで、じわーっと涙が出てきます。
中山さんの詩に感動した奥居さんが、『絶対に私に曲をつけさせて!』と言って生まれた曲だとか。
娘から父へのラブレター(深い思慕)ですね。
コメントありがとうございます。
『パパ』も素晴らしい曲ですね~。
この歌を口ずさむだけで、じわーっと涙が出てきます。
中山さんの詩に感動した奥居さんが、『絶対に私に曲をつけさせて!』と言って生まれた曲だとか。
娘から父へのラブレター(深い思慕)ですね。
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