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◆ここのところ養母と過ごしたり、電話で話すことが多くなりました。その度に非情な私は、思い出したく無い事柄を、養母から引き出そうとするようになりました。時折辛そうな表情の養母を見るにつけ、ごめん、ごめん、、、そう謝りながらも、絶対に聞いておかなくてはいけないとだと思うんです。これはただの「エゴ」なのかもしれません。戦争体験者の思い出したくない過去をほじくり返して、再び傷付ける行為は本来赦されるべきものではないと思うけれど、あの戦争を風化させないためにも、事実を残さなくてはいけないと思う。語り部も、世代交代の時期に差しかかっているのだから。年老いた養母の体験談は、時系列も脈絡も関係なくなってきています。だから、記しておきたいのです。
現在、御ん歳81になる養母は、私がまだティーンエイジャーになる前に、戦争体験をよく語っていました。だから小学校低学年でも、ガクトドウイン、キョウイクチョクゴ、ソカイ、ハイキュウセイ、シソーハン、、、なんて語句が、叩き込まれました。意味は理解しなくとも。当時は、養母が戦争体験を延々と語るので、戦争は養母が生まれて青春時代を終えるまで、20年近く続いたのだとばかり思っていました。でも、第二次世界大戦は、わずか4年。大東亜戦争の定義では8年。小娘に、当時の時間軸は理解できませんでしたが、それほど強烈な記憶だったのだろうと、後になってやっと理解できました。
養母の戦争体験として、一番強烈だったのは以前にもブログで書いたこの出来事。でも、当然それだけではありません。

ふたたび、母の戦争体験を少しばかり。

夜になると裸電球に黒い布をかぶせ、わずかな明かりを頼りに一家7人がちゃぶ台を囲んで食事をしていました。ある夜、突然空襲警報が鳴り響き、その日警戒の当番で、新婚2年め、生まれたばかりの赤ん坊を背負った近所の若いお嫁さんが「避難してくださーい、みんな、防空壕へ早く避難してくださいーいッ!」そう叫びながら、民家の戸を叩きまわったそうです。隣組という自治組織において決められた当番さん。隣組の最後の一人が避難するのを見届けるまで、自分が逃げることは出来なかったそうです。それは、そういう取り決めだったワケではなく、他所から嫁いできたばかりの嫁という立場上でもあったのでしょう。若いお嫁さん、、、隣組全員の無事を確認して、自分も防空壕へと逃げる時、B29数機が上空を飛び交っていました。バリバリバリ、、、そんな轟音の中を走る若いお嫁さん。。。誰もが「あともう少しっ、早く、早くッ!!」そう祈りを一つにしていた時、爆弾がそのお嫁さんの首筋に直撃しました。彼女は生まれたばかりの赤ん坊を背負って避難活動をしていました。そのあとは、肉片だけ。

おおきひ骨とちいさき骨、あまたに散らばり、、、

黒い土埃が引いた後の光景だそうな。こういう光景を目の当たりにして、すぐには悲しみも怒りも何も湧いてこなかったそうです。「仕方ないね、はかないね、、、」という無常感だけが、人々の心にあったようです。「明日はわが身」こんな色濃い思いがあったのでしょう。

◆養母は一番楽しいはずの女学生時代を、学徒動員の一環で、午前中は学校へ、午後は飛行機の尾翼を造る軍需工場で働いたそうです。戦局がまだそれほど厳しくはなかった頃は、まだ女学生らしくお喋りを楽しみながら、部品の組み立てをしていましたが、この頃から、学校では、社会と歴史の授業が無くなったそうです。漠とした不安はあったけれど、日本が負けるなどとは露ほどにも思わなかった、、、と語っていました。
それから間もなく、養母が働く工場近辺でも空襲が相次ぎ、ある日、とうとう本格的な爆撃が襲いました。学徒動員生は、真っ先に避難を命じられ、各々が逃げ惑ったのですが、僅かに逃げ遅れた女学生が、爆撃を受け崩壊した建物の下敷きになり、重症を負いました。内臓破裂。彼女と仲の良かった養母は、気が狂いそうだったと淡々と語りました。「一命はとりとめたんだけどね、暑い季節だろう。庶民に渡る十分な医療物資なんて無いから、蛆がわくんだよ。生きながらに、あの娘は腐っていったんだよ。。。ずっと『殺して!殺して!』って叫んでいたのが、可哀相で見ちゃいられなかったよ。。。」

改めて、悲惨な体験だと思います。けど、養母の記憶の端々に、当時差別されていた朝鮮人の姿が見え隠れするのです。彼らは、(少なくとも私の田舎の)日本人のコミュニティーに入れてはもらえませんでした。賎民として、屠殺や、罪人の処刑などを行っていた人々は、忌み嫌われて山深いところで暮らしていました、避難命令など届くはずはありません。彼らがどうなったのか、養母を含め、誰一人語ろうとはしません。戦争の恐ろしさとは、こういうところに現れる。憎しみは憎しみしか生まず、憎しみに還るのみ。
65年も経ったというのに、まだまだ知られざる戦争がありそうです。

◆柄ではないけれど、これでも毎年8月15日は、平和を祈願して真摯な祈りをするようになりました。今年は、民族差別について、遠い昔のことを思い出し、あれこれ考え、一人で悲しみに陥りました。
24年前に留学先のカリフォルニアの寮でルームメイトになったのは香港系の2世の女の子でした。私より2・3歳年上で、数学と政治学だったか経済学だったか忘れたけど、ダブルメジャー(2専攻)のスーパーガールでした。ひょえ~ってなもんです。朝早く起きて、朝食前にひと勉強。夜は暢気な私とは違って、ずっと遅くまで勉強していました。一緒に過ごしたのは1ヶ月くらいなので、あまり思い出はないけれど、とにかく勤勉だったことが印象に残っています。次にルームメイトとなったのが、同い年の韓国人の女の子でした。同じ留学生同士だし、同い年だし、とにかく始めから親近感でいっぱいになり、仲良くなりたくて仕方がありませんでした。
幸運にも、初めて会った時の(私の)印象は悪くなかったみたいだったのですが、ほどなくして、彼女の態度が冷たくなりました。目を合わさない、口を聞かない、こちらが言葉を発しても素気ない、、、というか、「話しかけるな!」オーラを発してるのである。何か気に障ることでもしたのかと、真剣に悩んだのですが、思い当たる節がない。悶々としてる内、ひょんなことから彼女の友達で、同じルートで留学してきている韓国人の女の子と仲良くなりました。寮の食堂で、一緒にご飯を食べながら、きゃっきゃと笑い合うことが増え、ルームメイトとの冷えた関係を埋めてくれるようで、本当に楽しかった。せっかく留学してきたのだからと、教会仲間のネイティブの友人を紹介し、一緒に聖書を読むようになると、彼女達は度々、寮の私の部屋を訪ねてくれるようになりました。そんなある日、また彼女達と一緒に過ごしているときに、ルームメイトが帰ってきて吃驚した様子。「貴方達、知り合いだったの?」「そうよ」なんて、韓国語はまるで判らないけれど、そんなやり取りが手に取れるようでした。彼女達の会話の最後の方で、「週末」「誘われて」「教会」なんて言葉が聞き取れました。すると、あの冷徹なルームメイトが、「ねぇ、私も教会に連れて行ってくれない?」と聞くのだ。。。(韓国は儒教の国でもあるけど、キリスト教も盛んだからね)そんなこんなで、みんなで一緒に教会に行った後のルームメイトは、人が変わったようにイニシエートしてくれるようになりました。お互いの内面的なことも語り合うくらいに。そして彼女は言った。

「日本人と仲良くなりたかったけど、この寮に住んでいる日本人は、皆、乱暴な言葉を使うよね。憧れの国だったけど、幻滅してた。確かに(朝鮮)半島の歴史は’おぞましい’けど、その発端、、、わかるよね?」

「それでも日本人を尊敬してたのに、ここ(寮)の日本人は何?夜な夜な男と出歩いて飲んで騒いで、淫らな噂もたくさん聞くよ。だから、同じ日本人だからって理由で、貴女を敬遠したし、軽蔑した。」

「でも、熱心に教会に通ってるんだね。誤解してた、ごめんね。」

ルームメイトのこの告白を聞いて、なんて真っ直ぐな人なんだろう、と衝撃をおぼえました。吐露するには羞恥を伴う感情を、どうしてこうも正直に告白できるのだろうと、私は彼女を尊敬しました。同時に、海外での振る舞いは、「私」という一個人ではなく、日本人全体として捉えられるものなのだと初めて思い至りました。

彼女は最後まで語らなかったけど、同じクラスの日本人から、相当な嫌がらせを受けていたようです。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

人づてにそれを聞いて、そんな言葉しか出てこなかった。韓国と日本の暗い歴史も知らなかった、バカな小娘時代のこと。

Kyongjin、元気ですか?どうしていますか?今日は久しぶりに貴女のことが強く思い出されました。
別れ際に、お互い、「i'm gonna miss you!」と言い合いましたね。韓国語ではなんと言うのでしょう?聞いておけばよかった。日本語では、「あなたが居ないと寂しい」というんですよ。



 日韓の関係を「ケンチャナヨ!」と一日も早く言いたいと思ってます。
 

☆追記☆

国民!様が、素敵な歌を紹介してくれました。
実はこの歌、サビの部分しか知らなくて、全部聞いたのはたった今。
この歌に共感しない人は居ないんじゃないかな。。。

アップしときます!

 

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戦後はまだ続いている

前に書いたかもしれませんが、あの年私の父は陸軍特別幹部候補生として広島県福山市におりました。

 幹部候補生と言っても、木製ボートにオートバイ用エンジンを載せた代物に、重たい魚雷を載せて体当たりをするという(そんな物が通用する米軍艦があるか???!!)・・。見事に死んだら2階級特進という酷い話。

 終戦後除隊となり、5日かけて北海道に帰る途中、空腹に耐えかねて名古屋駅に降りたとき、あまりにも何もないのに唖然としたと言っていた。
 おまけに人が歩いていない。

 被爆直後の広島は、まだ建物らしい物もあったし、人も歩いていたと言います。
 名古屋空襲はそれほど酷い事だったと言うことです。
 (私の聞いた話はハラペコの話だけですが)

 

 
donjara 2010/08/18(Wed)22:37:51 編集
Re:戦後はまだ続いている
>donjara様

コメントありがとうございます。

>名古屋駅に降りたとき、あまりにも何もないのに唖然としたと言っていた。おまけに人が歩いていない。  被爆直後の広島は、まだ建物らしい物もあったし、人も歩いていたと言います。 名古屋空襲はそれほど酷い事だったと言うことです。

知りませなんだ。。。
愛知県豊川市への爆撃が凄まじかったことは聞いていましたが。。。

残虐極まりない原爆の他に、8月1日富山と長岡、8月5日神戸・前橋・高崎、7日豊川、8日福山・八幡大空襲。10日花巻・熊本、11日久留米、13日長野。そして、正午までに「御前会議」でポツダム宣言受諾が決まっていた14日にも。熊谷・岩国・光・小田原・土崎、そして、大阪。

「そんなに人を殺すのが楽しいか?」

これはかの国に、今尚突きつけたい質問です。

>(私の聞いた話はハラペコの話だけですが)

戦時中は誰でもそうでした。
養母も常に飢えていました。

家から一人でも兵隊を送るのが、このうえない名誉な時代だったそうです。
養母は5人姉妹で、当然ながら誰も徴兵されませんでしたが、その事実が肩身を狭くしなければならない時代だったようです。
一家を支える実の父親に対し、少女が「お父さんが戦争に行けばいいのに、、、」そう思ったことも少なくなかったそうです。
少女にすらそう思わせる世など、狂ってます。
   
今の時代も、当時に負けず劣らず狂ってると感じます。
【2010/08/20 00:49】
作戦が成功しても帰ってくるな玉砕しろと命令
今年4月88歳のお婆さんが娘さんが住んでいる大分県で一緒に暮らす事になり、
引っ越して行きました。
10年以上前から一緒に暮らそうと言われていましたが、
この街が好きだからと言って断っていましたが、
家の中でつまずいて腰を痛めて娘さんを呼んで頼っていました。


度々大分から来るのも大変だしそろそろ一緒に暮らそうと言われ、
今回の件で観念をし娘さんと暮らすことになりました。
「娘さん現在66歳か67歳」


お婆さんが戦時中に結婚しその後ご主人は戦地に行き、
その後妊娠が判明し娘さんが生まれました。
ご主人には手紙で生まれたことは知らせて、
娘さんが生まれたことは知りましたが、
ご主人は戦死し我が子を見ずに亡くなり、
靖国に名前は刻まれているそうです。
「当たり前ですが娘さんもお父さんをしらない」


内の叔父さんは生きて帰ってきましたから、
叔母さんと同じお墓に入りましたが、
靖国に眠る人達は「この国の犠牲者」
奥さんと「奥さん達も」一緒にお墓に入れないことは本当に不幸だと思います。


本来ならこういう話を本にまとめて天皇家の人達に読んで知ってもらいい、
国民の犠牲があり夏は熱中症もならず冬は凍死もしないで、
生きていられるのは日本国民のおかげだと、
天皇家は語り継ぎ孫たちも知らないといけません。


内の母親が子供の頃空襲警報がなり防空壕に逃げるときに、
赤ちゃんをおんぶして畑仕事をしている女性がいて、
大人達が一緒に 防空壕に逃げようと言ったのですが、
その女性は言うことを聞かずそのまま畑仕事をていたそうです。
日本に絶望を感じたのか?、
その女性の心の中に何があったのあは解りませんが空爆で亡くなったそうです。


内の親父は戦時中にかぼちゃとサツマイモばかり食べていたので、
60歳近くまで冠婚葬祭でしかかぼちゃとかは食べませんでした。
子供の時に家ではなぜ食べないと聞いたら、
戦時中の時に一生分と思われる量のかぼちゃとサツマイモを、
食べたから食べたくないと言っていました。
満腹になったことは無かったと思います。


先週テレビで放送してましたがサイパンで暮らす、
沖縄出身の民間人が崖から玉砕する姿を、
アメリカ軍がカラービデオで取っていたのを放送してました。


NHKでは「15歳の志願兵」っとおう番組では、
教師は名門一中の生徒として進んで戦場に行くべきだと語る。
「俺は、すべての夢を捨てます あらゆる人生設計を捨てます」


右翼は靖国を英雄扱いにしたがりますが、
A級戦犯、B級戦犯は犯罪者。
他の人達はこの国の犠牲者です。


日本国民「家族の命」>天皇家の命とA級戦犯の命。


SMAP  Love & Peace Inside?


みんなが平和をこんなにも
望んでるというのに
どうして争いは続くのと
話していたそのすぐ後で
些細な事でけんかを始めて
口も利かないでいるなんて
平和を望んでいる様には
とても見えないだろう

僕らの心とこの世界は
まるで同じだと気付いた
争い耐えない心がそのまま
争い耐えない世界として映るのなら

自分の心が変わればきっと
同じように世界も変わるはず
思いも寄らない方法で
世界は変えられるんだ
些細なことで争い合ったりしない
自分に変わるために
心の中にいつも問いかけ続けよう
”Love & Peace Inside?”


お互いに大事に思うものを
ちゃんと認め合えた時
君と一緒に見た夕焼け空は
本当に美しく見えたんだ
自分を通すその為なら
君の笑顔さえ奪えるような
僕だと気付いた帰り道は
月が凍り付いて見えた

床に脱ぎ捨てたT-Shirtに
Love & Peace の文字
どんな時でも愛と平和は
気分で脱いだり着たりしちゃダメだなんだ

自分の心が変わればきっと
同じように世界も変わるはず
思いも寄らない方法で
世界は変えられるんだ
些細なことで争い合ったりしない
自分に変わるために
心の中にいつも問いかけ続けよう
”Love & Peace Inside?”


自分の心が変わればきっと
同じように世界も変わるはず
思いも寄らない方法で
世界は変えられるんだ
些細なことで争い合ったりしない
自分に変わるために
心の中にいつも問いかけ続けよう
”Love & Peace Inside?”


スマップ  Love & Peace Inside?
http://www.youtube.com/watch?v=rHavbV3ZSJ4


スマップ  Triangle
http://www.youtube.com/watch?v=915nyOfQ170&feature=related
国民! 2010/08/20(Fri)22:11:29 編集
追加
あと前にも話しかもしれませんが
部隊で食事をする時に、
例えばカレーライスが出たときに、
ふくじん漬けがお皿にもっているのを回す場合に、
今日はA班から、B班へ、C班へ、
次の日はB班から、C班へ、A班へと回していくと、
どうしても最後に回ってくるころには量が少なくなり文句がやはり出るそうです。


文句が部の長の耳に入った時は外で2列に並ばされて、
お互いの顔を叩けと言われ内の叔父さんは仲間だから、
軽く叩いたら○○!「名前を呼ばれ」叩くというのこうやって叩くんだと、
思いっきり叩かれたそうです。


旧日本軍は他の国の軍と比べられることはできませんが、
異常な軍隊だったのではないでしょうか。


エントリーには関係ありませんが、
今日と明日は近所の夏祭り。
何を食べようかな。


ZONE 恋々・・・
http://www.youtube.com/watch?v=li8udS-nNVI


ZONE - H.A.N.A.B.I ~君がいた夏~
http://www.youtube.com/watch?v=npAfJpFE0Y8


ZONE 太陽のKiss
http://www.youtube.com/watch?v=1OK_Tr71p_s
国民! 2010/08/21(Sat)11:38:53 編集
Re:追加
>国民!様

コメントありがとうございます。

国民!様も是非、語り部となって、伝えてください。
お願いします。

戦時中(それ以前もかな?)、都会ではどうだったかわかりませんが、私の田舎では、結婚の日に初めて顔を合わせる新郎新婦がほとんどだったそうです。
そして、間もなく夫は戦地に旅立っていきました。
新郎側の親族は、せめて「女を知ってから」なんて憐憫からなのでしょうけど、過激なフェミニストで無い私でも、それはどうかと思っちゃいますね。
それを「そういう時代だった」と片付けるなら、そういう時代を創った者を呪います。

>右翼は靖国を英雄扱いにしたがりますが、
A級戦犯、B級戦犯は犯罪者。
他の人達はこの国の犠牲者です。

そうなんですよね。。。

右側の人々が好む(と思われる)、最期は「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」とか妻子の名前だったという話を聞くと、やっぱり実家の墓に入りたかったかもしれませんね。

戦争体験者の多くは、その時代を否定することは許されませんでした。
政府のすることに、否応なしに従うしかありませんでした。
戦後、豊かになったと思ったのも束の間。
また政府の横暴が始まっているのですが、老いて尚、政策に否定的な声を上げることは躊躇われるのか、固定資産税、後期高齢者医療、小額な年金にも、養母は、「しょうがないよね、私だけじゃなくて皆同じだから、我慢しなくちゃね」などと言います。
そんなお年寄りに、更なる負担をかけるような政府は許せないな!
兵隊さんじゃなくとも、弱者は常に頬を叩かれる時代になりました。。。

今日は夏祭りですか!
こちらの夜空にも、花火が上がっていました。
明日も仕事(試合)なので、真っ直ぐ帰ってきましたが、うーん、アタシだったら、ビールによく合うお好み焼きが食べたいなぁ(笑)。

8月の終わりは、夏休みが終わりに近づく焦燥感からか、どうも物悲しくてしかたありませんでした。夏生まれの私は特に。
けど考えてみると、8月は弔いの月でしたね。一抹の寂しさを覚えるのは、当然なのかもしれません。

ZONE、懐かしいですね。
これまた、素敵な歌をありがとうございます。^^


【2010/08/21 22:47】
総員玉砕せよ  著者  水木しげる
散った戦友に 今も夢に

「パチパチ毎日殴られた」

昨年11月、千代田区の帝国ホテルで、
水木しげる88歳の「画業60周年を祝い、皆様に感謝する会」が開かれ、
ファンの作家や評論家が300人が集まった。
舞台に立った水木は、
これまでの漫画家人生を振り返っての感想を求められると、
やや唐突に言った。
「一番こたえたのは戦争ですわ。生きるか死ぬかの経験をしましたから」

戦時の思い出をひとしきり語ると、
「つい、戦争の話になってしまった」とつぶやき、笑いを誘った。
水木を3年にわたって密着取材し、
評伝を出版したことのあるノンフィクション作家足立倫行62歳は、
不思議な気持ちで眺めていた。

「ガキ大将だった少年時代も、
戦後の貧困生活も十分ドラマチックなはずなのに全然触れず、
戦争体験だけを語った。
まるで戦争だけが肥大した記憶として残ったかのよに」

「ゲゲゲの鬼太郎」などで人気妖怪漫画家は、
1942年(昭和17年)に徴兵検査を受け、
翌1943年、南方の激戦地
ニューブリンテン島・ラバウル行きを命じられた。
当時21歳。階級が1番下の二等兵だった。

戦後、数々の著作で戦争体験を期した。
1994年に刊行された「水木しげるのラバウル戦記」は、
絵と文字で日々の出来事を詳細に記録した1冊だ。
「(頼りない兵隊)だったな。あるいは”バカ”だったかもしれない」
マイペースな水木はほぼ毎日上官から殴られ、
理不尽な扱いを受けた。
ニヤニヤしやとか、歩くのが遅いとか、
殴られる理由はいくらでもあった。

最前線で約10人の部隊。
露営から数十メートル離れた海岸で歩哨に立ち、
海を見張っていた。
パラパラと小銃の音がしたかと思うと、
海面に水煙が上がった。
狙われてると知り、
「陛下にいただいた銃」を捨てて逃げた。
海で泳いだり、陸地に上がったりして軍靴はボロボロ。
数日後、海軍の基地にたどり着いた。
1人だけ助かったのだが、
水木は中隊長から思わぬ叱責を受ける。
「何でお前だけ死なずに生き帰ったんだ」
「ラバウル戦記」で次のように回想する。

「体は疲れてフラフラだったが、
一日の休養もくれない。
中隊長も軍隊も理解できなくなり、
同時に激しい怒りがこみ上げてきた」

嘘無感ばかりの毎日。
ある日、マラリアによる高熱で動けなくなっている時に爆撃を受け、
左腕をうしなってしまう。
血はバケツ一杯ほどでたという。
軍医が麻酔なしで腕の肉と骨を切り、
出血多量で気を失った。
「マラリアが再発したらおしまい」と言われたが、
奇跡的に一命ををとりとめた。
そして、負傷兵を収容作戦によって多くの若者が散った場所。
英雄的な死ばかりではない。
自決したり、ワニに食われたり、
魚がのどに詰まって窒息死する者もいた。
「ラバウル戦記」にはこうある。

「人の生き死にほど不平等なものはない。
特に、戦死したものとそうでないものの差、
これほど大きいものはない」

帝国ホテルで「感謝する会」から
約1週間が過ぎた昨年12月、
足立と再会した水木は語った、と言う。

「若くして死んでいった連中の夢を、毎日のように見るんです」
どんな夢なのか。
今、戦争を知らない世代に伝えたいことはー。
それを知りたくて、
「戦後世代にメッセージを」と求めて尋ねたが、
会話があちこちに脱線する。
時折、水木は目を閉じるようになった。
眠っているのかもしれない。
そろそろ記者が席を立ちかけた時、ぽつりと言った。

「無理に戦争を体験する必要もないですよ。
戦争というのは、パチッと殴られたようなもんですからな」


読売新聞から。


戦争体験した人間の重い言葉ですよね。


右翼の輩は旧日本軍が何1つ悪いことをしていないと嘘をつき、
戦争を美化しよとするとんでもない奴らが数多く存在します。


夏祭りは焼きそばとお好み焼きを食べて、
ちょと満腹になりすぎました。
国民! 2010/08/23(Mon)22:25:11 編集
Re:総員玉砕せよ  著者  水木しげる
>国民!様

コメントありがとうございます。

水木しげるさん、「ゲゲゲの女房」のヒットもあり、注目されていますね。
片椀なのですか?恥ずかしながら知りませんでした。

亡くなった伯父から聞いたものだったか、定かではありませんが、爆撃による衝撃波で、一瞬のうちに手足の関節が外れ、捥がれてしまうことがあるようです。
一瞬のうちにその瞬間は痛みもなく。
黒煙が晴れてそこに落ちている自分の腕を見て、拾おうとするその腕が無いことに気付く兵士の絶望感はどんなものだったでしょうね。

幼い頃、ゲゲゲの鬼太郎は怖くて見ることができませんでした(笑)
でも、一番怖いのは妖怪ではなく、人間ですね。。。

>夏祭りは焼きそばとお好み焼きを食べて、ちょと満腹になりすぎました。

食べすぎにも、夏バテにもお気をつけて。
私はこの夏、ますます食欲不振デス。。。
【2010/08/25 23:57】
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