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沖縄で戦後65年の追悼式 菅首相、就任後初出席

沖縄は23日、軍民合わせ20万人以上が犠牲になった沖縄戦終結から65年の「慰霊の日」を迎えた。
最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が営まれ、菅直人首相や横路孝弘、江田五月衆参両院議長らが出席。参列者は追悼と平和への誓いを新たにした。


「あの時12歳だったわたしは、もう77歳になりました。」

65年の年月、平和を誓ったはずの私たちは、これまでに一体何を成し得てきたというのだろう。
嘘と欺瞞に満ちた日本政府が、今も尚沖縄を蝕む。
恥ずかしい、本当に恥ずかしい。

ヴィッセル神戸で活躍する我那覇くん、「NO BASE in OKINAWA」 なんてアンダーシャツに書いてもいいじゃないの。。。


「秋葉原のように」と供述 逮捕のマツダ元期間従業員

広島県のマツダ工場で乗用車が暴走し、11人が死傷した事件で、殺人未遂などの疑いで逮捕された元期間従業員引寺利明容疑者(42)が、「秋葉原の(無差別殺傷)事件のようにしてやろうと思った」と供述していることが23日、捜査関係者への取材で分かった。

どんな事情があるにせよ、殺人は絶対悪です。
その事件の動機には、同情できないわけでもないけど、重大な結果を見ると、その動機に同情した自分が、害に被われた人を軽く見ているように思われても仕方ない。

殺すんじゃない!
自分自身も、他人も!!

辛いことがあるなら、言え。
友達がいないなら、そこいらにいる真面目そうなヤツを捉まえて、言ってみよ。
拒絶を畏れずに、言ってみよ。

誰も殺さずに済むかもしれないじゃないか。
自身に篭ることなく、人と交じわえ。
周囲もそんな人々を受け入れよ。

人を一人にしてはいけない。
人を一人にしてはいけない。
 




沖縄に、、、広島に、、、マツダの事件で命を落とされた方に

合掌
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5月16日豊田スタジアムで鹿島戦が行われた日、久しぶりに実家に帰り、養父の書棚を開き、何か面白い本はないものかと物色していたら、私が小学校4年生の頃のノートが出てきました。
教育委員会推奨の規定の、「生活記録」という担任と生徒との交換日記みたいなもの。
生徒は毎日1ページを埋め、その感想を担任が記します。
ページの端には「あなたの夢は何ですか?」「大好きな友達は誰ですか?」「尊敬する人は誰ですか?」など、ノートに印刷された毎日違う問いがありました。

思わぬところで30年前の自分を見つけて、懐かしいやらこっ恥ずかしいやら。。。(笑)
パラパラと読みながら、「尊敬する人」と題した記録がありました。
そこに挙げられていたのが、「澤田美喜」さん。

澤田美喜さんは、あの三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎氏の孫娘に当たる方で、外交官で後に初代国連大使となる澤田廉三氏と結婚。
海外を転々とする生活の中で、キリスト教のカソリックに傾倒していきました。

戦後日本に帰国しますが、ある日、列車の網棚から風呂敷包みが膝の上に落ちてきて、包みを開けてみると混血の嬰児の亡骸でした。

米兵と日本人女性の間に生まれた子供は、当時凄まじい差別を受けたそうです。
米兵に身体を売る女性もいたでしょう、陵辱を受けた女性もいたでしょう。
わが子を育てられないほどの世間の目に晒され、混血児達は密かに殺されたり捨てられたりしていました。
こういう事実を知り、澤田さんは私財を投じて「エリザベス・サンダース・ホーム」という孤児院を設立しました。

昔のドキュメンタリー番組を見た後の、とっさの思いつきのような拙い感想みたいなもので、澤田美喜さんなんて名前は永く忘れていたのですが、うーん、今になってこの日記を見つけたのは、何かあるのかなぁ。
どうしても訪れたくなり、6月10日東京の御茶ノ水に用があって出かけたのを機に、その翌日神奈川県の大磯まで行ってきました。

大磯駅の目の前に、「聖ステパノ学園」があります。
ここの門をくぐって、右にはサンダース・ホーム、左の石階段を上った先に、澤田美喜記念館があります。
ステパノというのは、澤田さんのご子息、晃さんのクリスチャンネーム。大戦で戦死されたそうです。

sawada.gif借り物の画像で恐縮です。
随分古い写真なのか、実際はもっと深い緑の森です。
白いこの三角形の建造物は、ノアの箱舟をイメージしたものだそうで、1階は生前澤田さんが収集した、隠れ切支丹の遺品(800点あまり)で埋め尽くされ、2階はチャペルになっています。
このチャペルは、毎週日曜日に、サンダース・ホームの子供達が礼拝のために使っているそうです。

小さくて清潔で簡素な、とても可愛らしいチャペルでした。
左の窓を覗くと大磯のビーチ、正面の窓からは椿の大木。
この記念館への石段を上って来るときにも気が付いたけど、椿の木がたくさんありました。
澤田さんが大好きな花だったそうです。冬は圧巻かもしれません。

3ecc32fa882dc2ecffe608c90b654371.jpgこのチャペルはいいな。簡素で素晴らしい。

カソリック系の教会には、磔刑のキリスト像が教会の中心にありがちだけど、私はそれを好まない。
人類の贖罪のために磔刑となったイエス、罪を忘れてはならないという思想なのだろうけど、イエスは蘇ったのだ。
死せるイエスではなく、蘇ったイエスを感じるべきだよ、うん。


この日の午後訪れたのは、私一人。ま、平日だもんね。
お陰で、管理人さんからマンツーマンで解説していただきました。

1階の記念館に入ると、左手に古文書の数々。
切支丹を弾圧していた当時の、住民台帳のようなもの。
何処の誰が、何処の寺の檀家になっているかを、克明に記しているそうです。
その横には、弾圧ゆえに改宗した外国人宣教師の改宗を記したものだそうです。

「遠藤周作さんの『沈黙』に登場するフェレイラ神父なんて人もいましたね。」

そう言ったところ、

「そう、その人の手によるものですよ。」

だって。
本当かなぁ~。

数々の品がありました。
ロザリオ、聖餐式の道具、仏像や掛け軸にしるした十字架やIHS(イエス)の文字。
刀の鍔に施した十字架・大黒様の背負った袋に隠された十字架。
どれも、密やかな信仰を表象するように、小ぶりで細かいもの。

大友宗麟の遺品や、細川ガラシャ夫人の縁の品まであって、歴史の事実を思い知ったというか、なんとも言えない感慨に耽ってしまいました。

一番痛ましく感じたのは、やっぱり数々の「踏み絵」だった。
管理人さんのご好意で、日本で始めての踏み絵の原版を見せていただきました。
踏み絵のはじめは版画で、イエスを抱くマリアの像を写した版画を踏ませていたそうです。
ボロボロの木製の原版を見て、それほど切支丹が多かったのだと驚き、それほどまで信仰にすがる当時の「時代」というものを考えながら、痛ましくも思うけれど怒りも覚えました。

これって偶像崇拝に過ぎないってこと。
なぜイエズス会は、それに気づかなかったのかってこと。

聖書にはこう書かれています。

The God who made the world and everything in it is the Lord of heaven and earth and does not  live in temples built by hands. And he is not served by human hands, as if he needed anything, because he himself gives all men life and breath and everything else.
                                                                                                   ACTS 17:24-25


この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、命と息と万物とをお与えになった方だからです。
                                     使途 17章24-25節


 

宣教師達は言うべきだったんだ。
踏み絵になどに、神は宿っていないと。
神は見えざるもので、ただ己の心のみで感じるものだと。。。

隠れ切支丹の膨大な遺品を見ながら、この一つ一つが、人の命そのものだと解し、なんともやるせない気持ちになりました。

何かを、誰かを慕うこと、それは外側に向かって広げる思いであり、物に託すものでは無いんじゃないかな。
 
記念館の片隅に置かれていた、ホームの子供達による澤田美喜さんの肖像画が目に留まりました。
伸びやかなタッチで、明るく優しく描かれた女性。
嗚呼、愛され慕われたんだなぁと、平安を感じる絵でした。
誰からも抱きしめてもらえず、誰からもキスしてもらえない子供達を、抱きしめキスした女性は、こんな言葉を残してスペインのマジョルカ島で永眠したそうです。


「私の旅……それは、この子どもたちのために、誰からも何も言われない国、いやな見つめる目のない国、そして、大手を振って歩ける国を求めて歩く……これが私の旅になりました」

ラビーンドラナート・タゴール詩集より

私をして危難から守られんことを祈らしめるな、ただ恐れなくそれらに直面せしめよ。

私をしてわが悩みを鎮めんことを乞わしめるな、ただかれにうち克つ心を乞わしめよ。

生の戦場における盟友を求めしむるな、ただおのれ自身の力を求めしめよ。

救われんことを性急に渇望せしめるな、ただおのが自由を得るための忍苦を望ましめよ。

私をして成功のうちにのみ御身の慈愛を感じるごとき怯者たらしめず、わが失敗のうちに御身の手の握力を感ぜしめよ。



タゴールの詩の中では、これが一番好き。
作者不詳の「foot prints」の返答の詩とでも言うべきかな。

そしてまぁ、こんな世の中だし、前のエントリーの延長で、こんなのもいいかも。
「御身」の部分は、好きな人の名前とか、信じるモノに置き換えてみてよ。


インドの祈り

御身はわれらに生命を与えた

この栄誉をわれらのあらゆる力と意志をもって支えよう

御身の栄光はわれらの栄光の上にかかっているのだから

それ故われらは御身の名において、われらの魂の上に軍旗を立てようとする権力に反対する

隷従の屈辱をうけている胸の中では、御身の光も暗くなることを

生命はそれが弱くなるときは女々しくも御身の冠をにせ者の手にゆだねることを銘記しよう

なぜなら弱さはわれらの魂を欺く裏切者だから。

快楽がわれらを奴隷にするところでは、快楽に抵抗する力を与えたまえ

われらの悲しみを、夏がその真昼の太陽を高くかかげるように、御身の許までさし出すべく

われらの礼拝が愛の中に花ひらき、仕事の中に実るよう、われらを強くなしたまえ

われらが弱きもの倒れたものを傷つけることなく

周囲の万物ががらくたを求めていようとも、われらがわれらの愛を高く持しうるよう、われらを強くなしたまえ

彼らは自愛のために戦って殺す、それに御身の名を与えながら

彼らは飢のために戦うが、その飢は兄弟の肉をくらって肥えふとる飢である

彼らは御身の怒りにそむいて戦って、そうして死ぬ。

しかしわれらには、しっかりと立って力づよく苦悩せしめよ。

真理の、善の、人間の中なる永遠なるもののために。

心と心との結合の中にある御身の王国のため

魂のものなる自由のために。



人は皆弱いから祈るんだよね。。。



 

今年は、ある勉強会に参加することにしました。
弓道を始めようと思っていたけれど、今年は名古屋市内の何処の道場も、募集要項がアップされていない。
もうお馴染みさん達だけでいいって事なのかな。。。ちょっとがっかり。
それで全く別のことを始めようと、勉強会の参加を決めたんだけど、いくつかあるテーマの中から一つを選ぶのには相当迷いました。
今年はサッカーワールドカップが、南アフリカで開催されることもあって、アフリカ諸国や紛争地域をテーマにした勉強会には、特に興味がありました。

でも、やっぱりまずは日本のことを知らなくちゃ!と思い、今回は別のテーマを選びました。

と言うより、本音は怖くなったのかもしれません。
南アで開催されるWCに便乗して、南アフリカに行こうと思っていたけれど、その国の在り様を本気で、見て、感じてこようと思っていたけれど、何だか突然怖くなりました。

前回、「思想・信条」について拙い意見を述べましたが、それだけじゃない、他にも大切なことがあるよってことで、「畏怖」についてつらつら述べてみます。

南アフリカの犯罪が怖いのではない、暴力が怖いのではない、殺されるのが怖いのではない。
貧しくて治安も悪く、劣悪な環境で暮らしている人々を、実際にこの目で見て、短期間のうちに「知ろう」などと思い上がった自分が怖くなりました。

写真を撮ろうと思いました。。。さて、私は一体何の写真を撮りたいのだろう?
ジャーナリストでもないのに、何を撮ろうとしていたんだろう。

貧しい人々の生活だろうか、暴動を起こす人々の熱量だろうか、それとも、病や怪我で命を落とす人々の身心都滅の様だろうか。
カメラを向けられる人々はそれを歓迎するであろうか、、、少なくともニッコリ笑ってはくれまい。
写真を撮る行為そのものは別に「悪く」はないだろうけれど、これらの場合、被写体にレンズを向ける、向けたいという欲求にかられることが、実は「畏怖」を忘れた恥ずべき行為で、「原罪」に当たるのではないかと思いました。

sudan.jpg1993年にニューヨーク・タイム紙に載り、
1994年にピューリッツア賞を受賞した写真、「ハゲワシと少女」。

旱魃と内戦で疲弊し、飢餓に苦しむアフリカのスーダンで、この写真を撮影したケビン・カーター氏は、受賞後、世間からの轟々たる非難を浴びて自殺。

批判の多くは、写真を撮る以前に少女を助けるべきではないかという人道上のもの。

しかし、カーター氏は写真を撮った後に急いでハゲワシを追い払い、この少女が立ち上がり、弱々しく歩き出すのを見ていました。
カーター氏は、なんともやり切れない気持ちになり、しばらく泣いていたと伝えられています。

彼に罪はあったのだろうか。

否。

罪は無い。

では非難に追い詰められたのだろうか?

違うと思う。

「写真を撮る以前に少女を助けるべきではないか」という人道上の大部分の批判ではない、少数派の批判が彼を苦しめ、彼自身も罪と感じ入り恥じたのではないだろうか。
それは、生と死の境目(セフィロート)にレンズを向けるという行為、その衝動。
通常は「畏怖」する領域に触れてしまった事に対する批判があったからではないだろうか。

社会から罰せられない罪なれど、一生忘れられず一人で背負わなければならない、彼だけの「罪」の重さを指摘されたのが、一番辛かったのではないだろうか。
「畏怖の念」を持つことは大切だと思う、どこかで学ぶべきだと思う。
人として根源的な問題を孕んでいるし、持つべき感情だと思うけれど、それは人それぞれ、個人の感情として存在すればいいもので、これが全体主義的になったらたまったもんじゃない。
自分の中の「畏怖」の定義で、他人を非難するなど、それこそ大いなる罪である。
だから学校教育で教えられるべきものではない。
家庭の中でとか、思想・哲学書で、密かに育てていくものなのだろう。
それが、現在の日本で、正しく育てられているかはわからないけれど。

聖域と呼ばれるアンタッチャブルな領域は、狭い方がいい。
この領域が広範となればなるほど、私たちの言論や表現は狭められていくのだから。
しかし、その聖域はあった方がいい。
己の「恥辱」を映す鏡として。

そんなことを考えているうちに、畏怖する領域(聖域)に対面することは、簡単に考えてはいけないと思い、南ア行きは断念しました。。。
けれど、いつか必ず行ってみたいと思っています。
(これは国民!様のコメント返信と、米屋の息子様へのコメレスで語った気持ちです)


これに関して、ごく最近感じたこと、身近に起こったことについて、思うままに書いてみます。

5/16 J1リーグ 名古屋グランパス vs 鹿島アントラーズ戦
●名古屋 1 - 4 鹿島○

もう!思い出すだけで何度も何度も脱力する。なんで鹿島には弱いかなっ!?
この日、会場となった豊田スタジアムの観客は約35,000人。
今年一番の入場者数である。
こういう動員多数の時とか、全国放送の時とか、首位攻防戦の時とか、ここぞという時に、鯱さんは勝てない。
ほんっとに勝てない。
ACLでメタメタになってるハズの鹿島なのに、やっぱり興梠・マルキーにやられちゃってる。

おまいら、ゴール前に9人並べ!FWは闘莉王据えとけ!
なんて、不貞腐れちゃう。

それはともかく、この日アウェー鹿島からの観客は3,000人程だったでしょうか。
残りの32,000人は、グランパスのサポーターでした。
試合開始前からの応援は、そりゃもう、大変な盛り上がりでした。
老若男女・サッカー通・ミーハー集団・コアサポ・素人、色々居たでしょう。
けれど、応援が始まると、皆が同じ動きをし、同じアンセムを歌いだし、スタジアムは熱狂に包まれます。
何とも言えない熱量を感じます。
「スタジアムが一つになる」こんなキャッチコピーは、サッカーファンにはかっこよく聞こえるかもしれません。
ええ、応援を見ている限りでは。

試合は1-4で大敗。
その後は掌を返したようなブーイングの嵐でした。
32,000人という観客が、たった11人の選手に向かい、罵声を浴びせるのです。
このブーイングを、「期待の裏返し、これも応援のうち」と言う人もいます。
サッカーファンならこれが通説となっています。

けれど、それを通説にしちゃったメンタリティは何に拠るものだろう、、、と考えます。
私の老養母も、豊田スタジアム開催の試合には欠かさず観戦に来ていますが、こういう負け試合後のブーイングは「みっともない」と言います。
私は、この養母の感覚、昔の人間の感覚が、現代人に欠落しているように思えます。
ブーイングはブーイングでしょ、野次と罵声。
これを応援の一つと考えよと言われても、悲しいかなサッカーオンチの私には理解できない。

5/16(日)、豊田スタジアムには、歓声と罵声が鳴り響きました。
よく知りもせず、その歓声と罵声にのっかっている人がほとんどである。
よく知りもせず、罵声にこそ力を込める人が居る。
群集心理の恐ろしさを知る瞬間である。

一人になった時、楢崎くんを目の前にして、今言ったその罵声をもう一度その調子で言えるのか。

畏怖を忘れた、卑屈な者の哀れさよ。。。

サッカーのスタジアム内でのみ繰り広げられる光景ならば目を瞑ろう。
しかし、現実にはそこかしこで繰り広げられている。
彼らは一体、今まで何を学んできたのだろう。。。


 

漠ととした形而上の問題を、論理立てて語る能力は無いので、こんな稚拙な比喩しか浮かびません。
未だに思考が散漫で悶々としているので、支離滅裂な文になることは目に見えているけれど、このモヤモヤ感を、払拭したいという、己の願望のまま書いてみます。

悶々と考えてしまったのは、TBを送ってくださった、「晴れのち曇り、時々パリ」様のエントリー記事でした。

>高校生活の最後を締めくくる、一週間続く全国高校卒業資格『バカロレア』試験の第一日目が『哲学』!
>与えられたテーマに沿って、5時間で論文を書く。
>18歳でですよ。
>これが出来なければ、高校終了と見なされない訳です。

>通りを歩く誰にマイクを向けてインタヴューしても、ちゃんと分析的答えが返って来るのです。
>その答えが正しいか正しくないかは、別としても。

不明の至り。
目の前がくらくらして、数年前の甥っ子とのやり取りを思い出しました。
生意気にも甥っ子は、私を名前で呼びます(笑)

甥っ子:「とらちゃん、英語教えて欲しいんっすけど、、、複数形とか冠詞とかわけわかんなくて。。。」

少々の英語がわかると言っても、甥っ子が学校でどの程度習っているのかわからなかったので、教科書を見せてもらったところ、絶句しました。
中学2年生の教科書が、すべて会話文。つまり問答文だったんです。
それも、いわゆるbroken English(くだけた英語)
こっちが汗をかきました。
およそ1時間のレクチャーで、どこまで理解してくれたかは不明。テストの後で「お陰でバッチリでした~ぁ」なんてメールを貰ったけど、全然嬉しくない。

さらに、その弟が高校に入学して初めての中間テストの際、英語の問題で、

「好きなアルファベットを5つ述べよ」

そんなのがあったそうな。
幼稚園のお受験問題じゃあるめーしっ!!

そりゃ、甥っ子は野球小僧で、高校も私立の野球推薦で入ったもんだだから、頭脳の方ははっきり言っていただけないけど、これはないでしょうに。。。
所詮アタシの甥っ子である。同じ一族としてDNAのイントロエン情報には「馬鹿」と刻まれてるのかもしれない。だから有名大学への入学なんて高望みはしないけどさ、もう、悲しくなっちゃったぃ。

フランスにおける「子供手当」は、一人につき日本の約5倍とか聞きますので、その分教育が厳しいのかもしれませんが、いや、これは相対性の問題じゃないですね。ホント、日本の教育はおかしい。

そう思っていたところに、「世に倦む日日」様のマスコミにおける洗脳方法記事があり、これまたくらくらし過ぎて倒れそうになりました。

 物事の善悪は、観測者が相対性をもって判断するものだけど、その観測行為の顛末をマスコミによって恣意的に作り出されると想像したら、凍りつきました。
事実、アタシは熱が出た。みんな平気なのかな?
そんなことを考えるのは、ただ一瞬だけのことで、翌日はいつも通り出社して、いつも通り平気な顔をして仕事をしていられるのかな。
それならば、人は何と多くの引き出しをもっているのだろう。。。
仕事を終え、束の間の自由な時間だけ思考と発言の発露を許され、また翌日から疑問を感じつつも日常を受け入れるのは、「仕方無い」ことなんだろうか。。。

「政治家は国民生活を考えるが、政治屋は選挙のことだけを考える」

そんなことを言った人が居ると思うんだけど、誰だったかな?

マスコミによる一方的な刷り込み報道を見極めるにはどうすれば良いのか。
それ教育ではないか。
フランスのように、18歳で「思想・信条」を持つ教育の方法が日本には欠落してるんじゃないのか。

「思想・信条」について、日本人はあまり語りたがらないけど、何につけ判断を下さねばならないときは、やっぱり己の「思想・信条」が基準となるのではないだろうか。

私は、これをパソコンの周辺機器とOS、ソフトで考えちゃいます。そんな脳しかない私は、そう比喩します。

PC本体(ハード)が壊れた時、私なら既存の周辺機器に見合った機材を求めます。(私の場合は保守)
機材が整ったら、最も好むOSをインストールします。(私の場合は日本国憲法)
そして、このOSと相性の良いソフトを選びます。(政党)

最近、このソフト(政党)選びに躍起になってばかりの人が目立つんだけど、一番大切なのは、自分のOS。
つまり自分の「思想・信条」だと思います。
OSがあってこそのソフト(政党)選び。

参院選に向けてまた政治屋さんの動きが活発になってきてるけど、安易なソフト選びはお薦めしない。
自分のOSが何かを、まず考えることです。
その上でインストールしたいソフトを選び、その後の物語(ナラティブ)を構築する。

おっとそうだった。OS選びも、マスコミの推薦など聞かず、自分で考えなくっちゃね。


 

★実はこれ、昨日書いたものなんだけどボツにしようと思ってました。けれど思い直してあげることにします。
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