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タイトルを、次兄の決断としようか、判断としようか、決意としようか、ただ「理(ことわり)」としようか、考えあぐねたけど、やめた。虚しいばかりだから。
近々、福島へ復興支援のために出かけるそうな。何時戻るのかと問えば「一定の目途がつくまでらしい」と笑っていたそうな。

養母よりも、長兄よりも、「何か」重大なことがあったときには、必ず真っ先に相談してくれるなり、事情を話してくれていたのに。
私には何も無かった。
『何でだよっ!何で未だに何も話してくれないんだよっ!』
そんな思いがこみ上げてきて苦しくて悲しくて辛くなってしまうのは、「福島」がもう極めて危険な場所だと認知しているからなのでしょう、、、。
正直、行って欲しくないという気持ちがあります。それはかの地の差別となるのでしょうか。

けれど、次兄以外の他の誰かが行ってくれればいいのに、、、なんてことはこれぽっちも思っていないと言えば嘘になります。
永田町や霞ヶ関で無駄な動きをし、ゲハゲハ笑い、人のカネで贅を貪る醜い人々に言って欲しいと思っちゃう。こんな奴らにも守るべき子供がいるのだろうけど。
嫁や甥っ子達は私なんかよりもっと強く、気迫めいた思いを持っているだろうけど、それはどうか察してやって欲しい。

事故から3ヶ月、もう何処が危険で安全な場所かなんて、語るのも愚かなことかもしれない。

けれど、悲しくなるのは何故だろう。。。




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みゆきはんの古い曲が無性に聞きたくなりました。
♪店の名はライフ自転車屋の隣り どんなに酔っても 辿り着ける♪

昔の田舎の商店では、猥雑で下品な言葉が飛び交っておりまして、閉口することもしばしばでしたが決して忌み嫌ってはいませんでした。「店の名はライフ」の通りに、何処の商店も人を相手に商売していました。猥雑の中に人が生きていると、決して諦観ではない、下品な笑いの中に垣間見ることができました。

どんなに酔って辿りついても、今は人の良さそうな昔の店も店主も居なくてさ、
♪店の名はライフ 今や純喫茶 頭の切れそな 二枚目マスター♪

容易にもたれかかることの出来ない時代を象徴するのが、頭の切れそうな二枚目マスター。
思想の変遷、言論の変遷、その門口にいるのが「頭の切れそうな二枚目マスター」なんだろうなぁ、、、と何とはなしに考えていたら、その二枚目マスターが何故だか姜尚中氏と重なるのはなぜだろう。。。
誰をも悪者にしない中庸的な思想の持ち主。極めて敵を作ることを避けていそうな氏を信用することが出来ないでいます。氏を見るたび、夏目漱石の「こころ」で先生が語る言葉を思い出します。

私は冷かな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかける事が出来るからです

◆3.11以降に学んだこと。世の中の雰囲気がいっそう陰鬱になったこと。悲しみの後には希望があるとは限らないってこと。怒りが渦巻いているのに、その声を黙殺するのが資本に毒された政治家や専門学者やマスコミであり、媚・諂いによって得た地位は適当に誤魔化し、非人道的な思考がいとも簡単に「正論」とスリカエられるってこと。新聞をひろげる度、テレビをつける度に、不愉快になり落ち込むってこと。鯱さんチームの守護神、N選手が防衛省のK大臣と共に登場する、広報ビデオに出演するらしい。「そりゃー壮大な企画だね~ぇ、ひゃっひゃっひゃ」とチャラチャラした馬鹿♂が笑ってた。是非の思考すら無い、熱くもなく冷たくも無い馬鹿(同い歳で残念)。お昼の休憩時、その日は独りでランチに出かけようとしたらそのチャラ男が「面倒くさい女が多いってか~・笑」と。それを聞いてた別のチャラ男が「アナーキーっすねぇ~」っとニヤニヤ笑フ。全く、ちゃんとした意味を知ってるんだろうか。(てめーらみたいなヤツが一番鬱陶しいんだけど・・・)という言葉は発することはよして、「じゃ、独りの方がマシだからサヨナラ~」と立ち去る。わけの分からない怒りに熱くなりながら、ある男の子のことを思い出していました。ホームゲームで良く顔を合わせる男の子。最近元気が無いのだ。。。先日もインフォメーションの近くをうろうろしていたところを声をかけたのだけど、義援金の箱を見て萎れておりました。「僕、前に千円入れたよ。」小学校5年生の少年にとって千円とはどんなに大金なことだろう。未だに義援活動をしなければならない事態に焦れているようでした。元気過ぎて閉口させられっぱなしだったのに、その少年が萎れているのである。「それだけ大きな災害だったもんね、でもね沢山の支援を1回だけするよりも、少しずつでいいから、復興まで続けて欲しいな。忘れないことが一番大事なんだから。」そう言うと、50円玉を募金箱に入れて立ち去っていきました。全く笑うことなく。。。キミは笑っていてよ。お願いだから笑っていてよ。。。これは大人が何とかしなくちゃいけないんだから。とは言うものの、資本に媚び思考を忘れチャラけ過ぎた大人達に何ができよう。。。ネットの言論と実生活で聞かれる戯言の乖離にくらくらする日々ナリ。

◆10日前に、こんな記事を読みました。あれこれ思うことがあり、ずっとコレについてエントリーをあげようと思っていたけれど、気持ちの萎えの方が勝っておりました。早晩、トヨタも潰れるんじゃないかしらん。

トヨタ社長「日本で物づくり、限界超えた」

電力不足の広がりに産業界は懸念を強めている。
 トヨタ自動車の豊田章男社長は10日、記者団に対して「安定供給、安全、安心な電力供給をお願いしたい」と訴えた。円高に加えて電力不足が広がる現状に、「日本でのものづくりが、ちょっと限界を超えたと思う」と危機感を漏らした。
 東日本から西日本へ生産や事業を移す動きを進めている企業も動揺している。
 NTTデータは、首都圏のデータセンターにある自社のサーバー数千台を関西地域のデータセンターに移転させる計画だったが、関電の節電要請を受け、「今後、海外を含めて移転先を再検討する」としている。
 東芝も岩手県内で生産していた半導体の一部を兵庫県の姫路半導体工場などで代替生産するなど西日本シフトを進めているが、「あまりに急な動きだ。対応をこれから検討する」と戸惑う。
(2011年6月11日10時04分  読売新聞)

お坊ちゃま社長、こんなこと本気で言ってるんですかね。自社発電してるはずなのに。売電だってしてるんじゃないかな。
それに、子会社に大変有能なガスタービン製造会社があるというのに。この時節に於いてこの子会社を知らないわきゃないと思うのだけど、数十社のある子会社のことなど、いちいち覚えていないのかしらん。
震災の影響で車の需要は大きくなってるけど、魅力のある車の製造をしているとは思えない。電力不足をしきりに宣伝しまくる政府・経団連・メディアに(一応)天下のトヨタの社長がガツンとアピールしてもいいのに。
鯱さんチームの試合に現を抜かしている場合ではないと思うんですけど、危機感が感じられないのは、ド偉い肩書きを持った人ほど顕著なのはどういうわけなのでしょう。

◆我が社に国税の調査が入ることになりました。税理士先生の言うことにゃ、こんな時期(異動直後)に入るのは珍しいらしいです。「財源が無い」って証左のためにも躍起になっているように感じられるので、アタシはビビッてしまって心配で仕方ないのだけど、まぁ、上の連中の暢気なこと。。。「優勝チームが珍しくって、内情を見たいってのが本音じゃないの・笑」だってさ。どこかで見かけたような、どうしようもない無責任な連中には呪詛しかないや。そんなこんなで、ブログの更新、ちょっと滞ると思います。

 

◆学生時代、「貧困」を卒論のテーマにしたという20歳も年下の小娘に、辺見庸さんの「もの食う人々」を貸したところ、衝撃のあまり言葉を失ってしまったようである。。。私はそんな心を美しいと思う。。。いまどきの小娘と嗤い、眉を顰める輩もいるけれど、そんな輩の誰よりも感度は高いと思う。何よりもその素直さを愛おしく思う。見守りたいと強く思う。
 

北京メディアウオッチ 〔ブログ〕より転載


第32回北京日本人学術交流会に寄せられた大石又七氏のメッセージ


私は元第五福竜丸というマグロを捕る漁船の乗組員で、アメリカが広島型原爆の約1000倍、15メガトンという巨大な水爆実験を行ない、その爆発で起きた大量の『死の灰』を浴び被爆した大石又七というものです。このマーシャル諸島のビキニ環礁は、負の遺産としてこの度、世界遺産に登録されました。

 アメリカ軍は、1946年から1958年にかけて、このビキニとエニウエトク環礁を使って67回の大気圏核実験を行ない、合わせて100メガトンの核爆発を繰り返しました。
 この間、日本の1000隻におよぶ漁船が被爆しています。

 この爆発は、なんと広島型原爆を毎日一個ずつ18年間落とし続けた量に匹敵するというから驚きです。それらの放射能は半減期が何十年、何百年というもので人間の骨の中に入り込み、染色体を傷つけながら体の内側から攻撃するという内部被爆を起こしていたのです。染色体を傷つければ死産や奇形児の原因を作りだし、子孫へと繋がっていきます。これが水爆の恐ろしいところです。骨の中では造血細胞が白血球や赤血球、血小板などを作り出して人間は生きています。それらを時間をかけながら破壊し、がんなど作り出していました。
 白血病や骨肉種を起こすストロンチウム90、甲状腺がんを起こすヨウ素131、遺伝子を狂わせるセシウム153、中には半減期 (半分になるのに) が2万4千年かかるというプルトニウム239が含まれています。

 この事件の重要なのは、目に見えない放射能というミクロの世界であるということです。半減期の長い放射能が食物連鎖や風などに乗って地球上を漂い、誰のどこに取り付くかは現在の医学では計り知ることは出来ません。

 1940年代から50年代にかけて核実験が地球上のあちこちで始まりました。大量の放射能が大気圏や地球上に振りまかれています。そのことを裏付けるように60年頃から世界でガン患者が急増し、日本でも今死亡率のトップはガンで、年間35万人といわれています。
 私は、この放射能がその一因になっていると思っています。
 この重大な問題は黙って見過ごすわけにはいきません。

 私たち23人の乗組員の内、半数がすでに被爆と関係あるガンなどで亡くなっています。私も肝臓ガン、最初の子どもは死産で奇形児、今も白内障、気管支炎、不整脈、肺には腫瘍を抱え嗅覚も消え、三二種類の薬を飲みながら命をつないでいます。しかし日米政府はこの大事な事件を被爆者や被害者の頭越しに政治決着を結んで解決済みにしたため、私たちはその時点から被爆者とて認められず亡くなっても発病しても援助も治療も受けていません。

 私も他の被爆者と同様、差別や偏見を恐れ、その上共産党の回し者のように揶揄され、東京の人ごみに逃げ込み隠れていました。だが、仲間たちが一人ずつ亡くなって行き自分にも次々と不幸が襲ってくる。この恐ろしさが何事もなかったかのように忘れられていくことの悔しさが募り、当事者が声を上げなければ又必ず起きる、繰り返されると思うようになって、その後からは何十年も内部被爆と核兵器・放射能の怖さを伝え続けてきました。
 ビキニ被爆事件は日米の政治がらみのため、識者の中には判る人もいますが、元漁師で洗濯屋の親父が一人で訴えても振り向いてはくれません。

 東日本大震災、大地震が3月11日とうとう牙をむきました。そして恐れていた原子力発電所が高さ15メートルの大津波で破壊され、大災害の上に放射能が襲い掛かっています。被害を被っている人たちの心境はいかばかりかと胸が痛みます。

 苦しんでいるさなかに不謹慎なことかもしれませんが、私は一言いいたいです。

 東海村の原発とビキニ事件は大きな関わりがあるからです。だが誰の口からもビキニ事件という言葉が出てきません。ビキニ事件が当時、核、放射能の恐ろしさをあれほど警告して証明したのに、日米政府はわずか9ヶ月で政治決着を図り握りつぶしました。私たちはその時点で被爆者ではなくなり、何の援助も補償も受けられなくなりました。
 そして、こともあろうに被った膨大なビキニ被害額やアメリカの核実験容認などを取引材料にして水面下で原発技術や原子炉をアメリカに要求し、東海村に導入したのです。後にアメリカの国立公文書館からそれらの資料が見つかり明らかになりました。

 原発導入に対しては、当時大勢の人たちが日本列島には活断層が網の目のように走っているから危険だ「原発は核兵器と同じもので危ない」といって反対してきました。その答えが今出ているのです。もし直下型だったらどうなっているだろうか、北海道から沖縄まで、いや世界中に広がり大変なことになっていると思います。
 ビキニ事件以来、歴代の政権は核兵器と放射能の恐ろしさを隠したまま安全だ安心だといって国民に少しも教えてきません。これこそが重大な流言飛語ではないでしょうか。そのため大人になっても怖さを知らず反対もしない。目の当たりにして初めて驚き、恐れおののいているのだと思います。
 それは科学者も政治家も同じで自ら原発は安全で安心だという幻想をいつの間にか信じてしまい、この凶器を利益を追求する企業に持たせてきました。企業には事故がおきても賠償する能力などなどないことは素人にも分かります。

 ビキニ事件後に生れ、原発の成り立ちを知らない政治家たちがまるで現政権の責任でもあるかのように国会で騒いでいますが過去をもっとしっかりと勉強するべきだと思います。
 原発導入に関わった者たちは、原発に有利な計らいをしてその見返りに政治資金や地位、財産にもありついてきたはずです。自分たちの過ちで大勢の人たちが苦しんでいるのです。責任を感じるなら溜め込んだ財産や資産は苦しんでいる人たちの前に差し出し、頭を下げて施設住宅に入り、発電所の中で自ら陣頭指揮をとるのが人の道ではないでしょうか。

 あと一つ言いたいことがあります。アメリカ軍と軍事同盟を結び、毎年5兆円もの税金を使って人を殺す為の軍事訓練を重ねている自衛隊は、日本国憲法に従って今すぐにでもやめ、災害救助隊に替えるべきだと思っています。私は何年も前から子どもたちの前でこのことを言い続けてきました。災害地の現状がテレビで映し出されるたびに、災害救助のヘリコプターが今出動していたら助かるのに、飢えと寒さに震えているあそこにはヘリコプターなら行ける、有事なのだ。イライラしながら見ていました。

 核兵器を積んで他国を攻撃する最新鋭のハイテク飛行機は要らない。ミサイルやたくさんのレーダーを搭載して人を殺しに行く4000億円もするイージス艦も要りません。
 自衛隊員の姿を映像で見たのは確か災害発生2日後だったように思います。外国からの援助隊は敏速でした。嬉しかったです。

 憲法九条を持つ日本が世界に貢献する道は、毎年繰り返される災害に貢献する災害救助隊だと思います。一刻も早く出動し、助け、喜ばれ、信頼される。これこそが核兵器や戦争を無くして平和に近づく早道で、21世紀の『人類が目指』なければならない方向だと思っています。     

     2011年4月22日                         
ビキニ被爆者 大石又七


[大石又七さん プロフィール]
 1934年、静岡県榛原郡吉田町に生まれる。1948年から漁師となり、1953年に新たにできたマグロ漁船第五福竜丸に乗船、5度目の航海中の1954年3月1日、ビキニ環礁で被爆。
 長い入院生活の後、東京でクリーニング店を営みながら、自らの体験談を中心に核廃絶や平和を願って活動している。


('11/6/9追記)

大石さんは20歳で被爆し77歳になる今日まで、57年もの間、被爆に対する無理解による差別と戦い、ビキニ事件を無かったこととする政府、マスコミ、世論と孤独に戦い続けてきました。
57年と言えば、半世紀以上です。
その間、誰も耳を傾けなかったのは、大石さんが自嘲気味におっしゃるように「元漁師で、洗濯屋の親父の叫びなど、誰も聞いてくれなかった」のでしょう。
東電の女性社員が福島第一で被爆したことに、厚生省は大騒ぎで調査をするけれど、ならばその基準で福島の住民、特に子供達の被爆調査も同様に大きく騒がなくてはいけないのに。

彼に一体どんな落ち度があったのでしょうか。
被害に遭い、守ってくれるハズの日本国政府はアメリカと政治解決し、医療保障も無い事に怒りの声をあげたら、共産党呼ばわりされて被爆以上にいわれの無い差別を受けてきたのに。
「核はいやだ!」それだけの主張をしている、それだけなのに、それでも政府は原発を推進するというのか。。。

現首相の名前など、忘れてしまうくらい嫌いだけれど、それでも浜岡を止めたし、脱原発宣言ともとれる「自然エネルギー」へシフトする考えも示しました。もちろんパフォーマンスなのでしょうけど。
しかし、それを機に、こんな時にでも与野党から「菅おろし」の政局に持ち込む声があがっているのを見るにつけ聞くにつけ、「菅氏に任せてはおけない!」という大合唱となるのは受け入れられません。
東日本大震災から3ヶ月を過ぎようとしているのに、不自由な避難所暮らしを強いられている多くの人々を尻目に、与党も野党もないだろうに!っと憤慨していたら、、、あ、大連立だそうです(爆)。
消費税増税、TPP加盟、道州制導入が柱だそうです。

悲しいことに、対立政党なし。これを翼賛といい独裁というのではないのかぁ。

耐えがたきを耐え、、、の時代みたい。。。

気持ち悪いですね。。。。

◆6月5日(日)、養父の27回目の法要のため実家に帰りました。実家まで駅から徒歩5分の道のりなのですが、シャッターが下りて「閉店」の張り紙がある店と新しくオープンした店ばかり目につきました。豊田スタジアムで試合がある時は、たまに実家に泊まっていたけれど、最近はあまり立ち寄らなくなっていました。駅を基点にスタジアムとは反対方向にある実家の界隈は、来るたびに変わっている感じで落ち着きがない町に成り果てました。その世界では全国的に有名だったバレエ教室も移転してしまったのか、そのビル自体が飲食系の雑居ビルになっていました。車の利用者が圧倒的に多いこの町で、駅周辺の居酒屋が繁盛するのは、サッカーの試合がある時くらいなのに。学歴とか身につけるモノのブランドを気にする現代人みたい。中身は空っぽ。思えば20年ほど前、駅に直結して高級デパート(そごう)が出来てからこの町はおかしくなったような気がします。だいたいそれまで農業と製造業で成り立っている田舎の保守的な女達は、割烹着にサンダル姿で、そごうに出かける素朴な人たちばかりでした(笑)。高級デパートの商品の価格を見て、当然のように生協や農協、小さな個人商店やスーパーと比較して目の玉が飛びだすほど驚いていたのだから、デパートなんて全く異質なものでしかありませんでした。はい、当然閉店しまして、今は大丸松坂屋が細々と営業しています。ここで一番客の入りがいいのが、100円ショップとユニクロだとか(笑)。もともと、新しいものは容易に受け付けない土地柄ですからね。新しい店を横目に、何時までもつのだろう、なんて思ったけれど何度も何度も見てきた光景。町並みはどんどん綺麗に整備されているけれど、不似合いなほどに古いお店というのが、昔から変わらない「自慢の味」を持った御菓子屋さん だったり、コロッケが売りの精肉店だったりします。懐かしい。まだ変わっていないことにほっとします。

◆旦那寺へ向かう道すがら、車窓を眺めて変貌した町並みを見ていましたが、市街地から離れること10分程で、他地域はそれほど、、、いえ、全く変わっていないことに気づきます。世界的に有名な某大手自動車会社に続くこの道は、30年前と変わらない片側一車線の国道。今でも毎朝大渋滞だそうです。地方自治体が国有地(この場合は国道)を買い取るってことはできないものかなぁ。出来るのであれば、なぜ馬鹿みたいに儲かっていた時期に買い取らなかったのだろう。うちの旦那寺は、在原業平の伊勢物語に登場するかきつばたで有名なお寺(無量寿寺)の近くです。年忌の時くらいにしか訪れないところなので、道もちゃんと覚えていないのだけれど、市街地から遠く離れた場所はやっぱり変わっていません。狭い道を右折し、お寺の石垣が見えました。おそらくここは、40年も50年も変わらない景色、、、というか、空間なのでしょう。

◆法要が始まる前に、お寺の住職さんから小さな冊子を受け取りまます。読経の後に、皆で唱和する『正信偈』なるもの。はい、うちは浄土真宗大谷派、お東さんです。じいちゃんもばあちゃんも、伯父も伯母も、養父も実母もお東さんに倣ってきました。『正信偈』は何度も目にし、唱えたものですが、これが経典ではないってことを始めて知りました。釈尊が残したものだけを経典と言うのであって、浄土真宗の始祖たる親鸞が残した『難異抄』と同じく、真理を求めた者がようやく辿りところを記したものに過ぎないのですって。仏の教えと言うより、どう解釈すれば良いかの親鸞聖人独自の説明であり、讃美し感謝して有り余る親鸞聖人自身の気持ちに過ぎないらしいのです。親鸞聖人自身は、かつて貴族のものでしかなかった仏教信仰を、一番救われなくてはならない庶民達に広めました。罪とか業とか贖罪とか往生とか、経典の理屈は自分(僧)が担うから、何も知らなくてもいいから、この念仏を唱えれば救われると残したのです。言霊信仰でもあるよね。なんまんだぶ、なんまんだぶ。たまたま『一個人』という雑誌の表紙に「美しい日本の言葉」なんてキャッチがデカデカと載っており、パラパラと捲っていたら、親鸞聖人のことが書かれておりました。養父の(最後になるかもしれない)年忌にあたり、親鸞聖人が残したものに興味が向かいました。

正信偈現代語訳
http://www.gobosama.net/gendaigoyaku/index.html

驚いたのはこちら。
http://j-ken.com/category/all/data/753192/

真宗宗歌

作詞 真宗各派協和会
作曲 島崎 赤太郎

1 ふかきみ法(のり)に あいまつる
  身の幸(さち)なにに たとうべき
  ひたすら道を ききひらき
  まことのみ旨(むね) いただかん

2 とわの闇より すくわれし
  身の幸(さち)なにに くらぶべき
  六字のみ名を となえつつ
  世の生業(なりわい)に いそしまん

3 海の内外(うちと)の へだてなく
  み仏(おや)の徳の とうとさを
  わがはらからに 伝えつつ
  浄土(みくに)の旅を ともにせん

キリストさんの賛美歌と何が違うんだろ。。。しかし、やっぱりインターネットって便利ですね。20年前だったら、決して「正信偈」の意味に簡単には辿りつけなかったと思います。

◆久々に会った甥っ子は既に二十歳。小学生からずっと野球を続けていて、野球推薦で高校に進学したけれど、プロの道は厳しいです。毎日毎日、暗くなるまで家の前で素振りをしていたのを知ってる。プロになる夢が潰え、かける言葉も見つからないまま再会。まったく、、、茶髪・ピアス・喫煙。見た目は決して麗しくなくなっちゃってました。そんな甥っ子が4月の下旬から5月の上旬にかけて、福島の郡山へ復旧支援のため出張ったそうです。「あんなにニュースで騒がれて問題になってんのに、町の雰囲気はここら(豊田市)と変わらないのに、郡山の子供達はフツーに通学してんですよ、雨とか降ってきても、濡れちゃっててさ。平気なんかなぁ??自転車で元気よく駆け抜けて行くんっすよ。。。ありえねーと思ってさ、落ち込むっつーか、悲しいっつーか、、、確かにどうにもならないかもしれないけど、俺じゃナンともできないけど、『なんか違うだろ』って思った。なんかすごくショックだった。あれ、なんなのかな、そこで生きていく覚悟なんかな?雨なんかに濡れんじゃねーよ!って思ったけど、何も言えんかった。」でかい図体の甥っ子が、声をひそめてそう言いました。見てくれはやんちゃなんだけど、その感性が嬉しいよ。相当ショックを受けているように思えたのだけど、脳天気な兄は、甥っ子の気持ちをきちんと酌んでいるのか、ちょっと心配になりました。





在原業平の歌でよく知られているのが

千早ふる 神代も知らぬ 竜田川 からくれなひに 水くくるとは

からころも きつつなれにし つましあらば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

私は後首の方が好きです。^^ 
無量寿寺は小学生1年の頃に遠足で来たことがあります。花を愛でるなんて気持ちなどないものだから、細い小道で皆で走り回っておりました。お弁当の時間になりお茶を飲もうとしたら水筒の蓋が開かなくて、男子にも試してもらったけど駄目で、半ベソをかいていたら校長先生がニコニコして近づいて来て「開ける時は左にまわすんだよ」そう言って簡単に開けてくれました。「こうちょうせんせーっ!すごい!すごい!」なんて皆で大騒ぎして校長先生を取り囲み纏わりついて、さぞかし喧しかったでしょうに、私たちのグループの隣で一緒にお弁当を食べてくれました。一人一人のお弁当を覗き込んで、「これは海のものか山のものかわかるかい?」なんて質問して、窓際のトットちゃんの先生と同じでした。私のお弁当の中にあった「ちくわの磯辺揚げ」を指差して、「これはどっちだと思う?」と聞かれ、「山のもの?」っと見事に外してしまいましたが(笑)。あの遠足以来、皆校長先生が大好きになって、授業と授業の間の休憩時間(愛知ではこれを『放課』といいます。)に校長先生を探しに必ず校庭に出るようになりました。いつも中庭とか観察植物の場所で草取りばかりしている先生でした。
ワイシャツの袖をまくり、首にタオルを巻いて麦藁帽子を被っているのが私たちの校長先生でした。今の時代、そんな校長先生いるのかな。。。

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