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日本の強みって、なんだかんだと言っても産業技術にあると思ってた。

だけどそれも昔の話になったのかしらん。

なんだかよくわかんない、コンサルティング会社と称する、マッキンゼーとか、リンモチみたいな、ディベートが出来れば生き残れると勘違いしてるつまんないサービス業が、新卒の学生には人気なんだってさ。
マッキンゼーねぇ。。。リンモチ(リンクアンドモチベーション)ねぇ。

人を対象としたサービス業。
事業の効率化と増産のためのコンサル業。

こんな第三産業がもてはやされるようになっちゃってさ、一体どうなってんだ!って叫びたい。

ま、いっか。
今日の話題はこちら。

QUEEN フレディ・マーキュリー追悼企画

久しぶりに聞いたクィーンの音色はとてもいい。
ビートルズの音を賞賛し尽くす人々が居るのはわかってる。
でも、その時代を逸したアタシには、共感し尽くせ無いトコもある。

クィーンもね、兄貴の世代で一世を風靡したグループなんだけど、、、アタシは大好きだった。

フレディの境界無き音域、ブライアンの正確なギターメロディ、繊細で滑らかな音はとてもギターの音色とは思えなかったので、デビューアルバムを聞いた評論家が、「シンセサイザーの使い方がなかなか上手い」なんて言っちゃった(笑)。そしたらブライアンが怒っちゃってね、2枚目のアルバムには「No Synthesizer!」なんてクレジットが入ってた。評論家のテキトーさもどうかと思うけど、ムキになるブライアンの若かりし頃が懐かしい。

そのルックスから、とてもドラマーとは思えなかったロジャー。
break freeのPVでの女装姿は、ほんっとに可愛くて、お人形さんみたいでおったまげちゃった。
今はもう60歳を越えているんだよね。相変わらずカッコイイんだろうなぁ。
ロジャーが刻むビートは見た目を裏切って、男っぽくガンガン響いてた。

そして、いつもひっそりとして、目だつことなく、奏でられる執拗低音。
ジョンのベース。
今日は貴方の音を探しています。

1991年11月24日。
クィーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーが亡くなりました。
自身がHIVに感染していることを告白し、病気と闘いながらも音楽活動を続けていくと宣言した翌日、彼は永眠しました。
ショックだったなぁ。。。

これはビートルズファンが、レノンが銃に倒れたと知ったのと同様だと思う。

ブライアンとロジャーは、多くのアーティストとユニットを組んで、今でもクィーンとして活動を続けていて、
ギターが弾けなくなるまで、ドラムが叩けなくなるまで解散せずに活動しようと頑張ってます。

ジョンは引退宣言をして、クィーンを去りました。
ジョンこそずっとクィーンを支える人物だと思ってたので、本当に驚きました。
いつもソコに居てくれるのが当たり前で、重厚な執拗低音を奏でていたのに。
ジョンだからこそ絶妙なバランスが保たれていたのに。

でも見方を変えると、ジョンは、それほどまでにクィーンというグループを大事にしていたのかもしれない。
フレディーがいるからこそのクィーンだと思っていたのかもしれない。

フレディーを追悼しつつ、今日は妙に貴方の音を探してしまいます。
 

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東京から帰った次の日、午前9時頃だっただろうか、まだ布団を抱いていた怠惰な私は、何度も鳴らされる玄関のチャイムを。(どうせ新聞か宗教の勧誘だろう)っと完全に黙殺していた。。。
そしてzzz。
またまどろみ始めた頃、突然ドアの鍵がこじ開けられる気配を感じ80%くらい目が醒めた。

へ?ピッキング???

なんて少し恐怖したものの、まだ20%は寝てたし、ドアの鍵は特殊な構造なので「開くことはない」とタカをくくっていた。
案の条、外の人間は相当苦労している。。。でも、、、しつこいな。(ガチャガチャ)、早く諦めてくれないかな。(ガチャガチャ)。
でも、待てよ、もし開いちゃったらどうしよう・・・あ、ドアストッパー掛けて無いじゃんっ!!うわーーーっ!!ってな感じで飛び起きて、ストッパーを掛けようと布団を剥いだ時に、ドアが開いた。。。

恐くて恐くて布団を抱きながら「誰なのっ!!」っと叫ぶのが精一杯、喉の奥がヒリヒリした(わたくし、寝るときは基本何も身につけないので、色んな意味でピンチだったのだ)。

そしたら、ドアの向こうから、聞きなれた間延びした声が。。。

「アンタが食べたいって言ってた鮎、持ってきたよ。」

・・・・・・・・。

養母だった。体中の力が抜けて、安堵感でヘナヘナしたとたんに猛烈な怒りが沸いてきた。
「ピッキングかと思ったじゃないの、驚かせないでよっ!!」安堵感は得たとはいえ、心臓はまだバクバクしてる。無性に腹がたって、語気が鋭くなった。

「ごめん、ごめん、でも電話したんだよ。留守番電話にも入れたんだけどね、そりゃ疲れてるよね、ごめんごめん。」

そうやってカラカラと笑い、荷物をほどく老女に言葉は無い。

んっと。。。

ここのところ、夏になると「鮎飯」が食べたくって、ずっと養母にねだっていたのだけど、食べられ無いこと10年あまり。

「ねー、アタシが鮎飯食べたいの知ってるくせに、いつも事後報告だよねぇ」

なんて嫌らしい言葉を吐いてしまったのは、去年の秋のこと。

養母はアタシが吐いた毒を1年間温めつつ、渓流釣りが好きな従兄に

「鯱(とら)が食べたいらしいから、沢山釣れた時に少しわけておくれよ。」

かねてからそう頼んでいたらしく、その日は従兄が釣った鮎を下げて、アタシを訪ねてきたらしい。
10月上旬に釣った鮎を、カチンコチンに冷凍したまま。
さぞかし重かっただろうに、、、ゴメン、ピッキングと間違えて。
頭に上った血はすぅーっと下がったのだけど、素直でないアタシは振り上げた手を簡単に下ろせなくて、語気は鋭いまま。

おかん、許せ・・・。

罪滅ぼしに、夕方まで愚痴を聞く(笑)。
これが案外難儀な勤めである。

夕方、久しぶりに養母と台所に立つ。

一緒に暮らして居た頃、養母は料理が嫌いだったので、アタシが台所に立つと「これ幸い~♪」っとばかりに
とっとと逃げて、「あたしゃ店番があるからね!」っと編み物に勤しんでおりました。
台所から逃げてばかりだった養母と台所に立てるのは、時が経ったからだろう。

西日の当たる私の部屋のキッチンは、それでなくても暑いのだけど、アタシには違う熱さをもたらしました。

従兄がくれた獲物は、天然鮎10匹。

3匹は鮎飯用に素焼きに。
残りは保存が効く甘露煮に。

「甘露煮なんか作ったことないよ」

そう言う養母は鮎飯担当、アタシはどんな料理下手でも料理上手に変貌させる利器「圧力鍋」で甘露煮担当。

んっと、、、。

あはは、どっちもちょっと火を入れ過ぎちゃったね(笑)。

2人で笑いながら、2人で火を見守る時間は、とても楽しかった。

出来上がった鮎飯と甘露煮は、少し焦げ目アリ。
 

でもさ、今まで食べてきたおかんの鮎飯の中でも、ピカイチに美味しかった。
10匹もの鮎を、わざわざアタシのところに持って来なくてもいいのにさ、、、。
 
色々問題があるのだなぁ、、、っと思いつつ、兄とは話をしなくっちゃ、っと強く思った。

「馬鹿ヤロー」

なんて叫んでしまうかも。

「お米1合につき、醤油は大匙1杯ね」

養母のレシピを習得したいとも、、、このままいつまでも作り続けて欲しいとも、、、。

勝手でゴメン、鮎飯をありがとう。
レシピはばっちりだけど、元気でいる限り、作り続けて欲しいな。

ハイ、代償に、貴女の愚痴ならいくらでも聞くからさっ(笑)。


ヒルクライム 春夏秋冬


5月2日、ロックシンガーの忌野清志郎さんが亡くなりました。享年58歳。
喉頭癌克服から1年あまり。

壮絶な闘病生活の後の、あまりにも若過ぎる死。
脳裏に浮かぶ人物が居ました。

養父のこと。。。

大正15年1月23日生、昭和59年9月8日没、享年59歳。
死因は肺癌。

酒と煙草とJAZZと読書を愛した、孤高の人でした。
生きていれば83歳の爺様なんだけど、つくづく生きているうちに一度は一緒に飲んでみたかったなぁ。。。

17歳の夏(若い!)、高校の期末試験を終えて学校から帰り、夕食を終えて脱力していた時に、
突然、養母が切り出しました。

養母 「この間ね、お養父さん、血痰を吐いたでしょ?あれ、検査してみたらさ、病院から通知が来てね。。。」

私 「・・・・・・・・。」

養母 「『癌センターで精密検査してください』って書いてあったから、検査したんだよね。。。」

私 「・・・・・・・・。」

養母 「そしたらね、、、お養父さん、肺癌なんだって。。。」

私 「!!!」

養母 「余命3ヶ月だって、だから覚悟しておきなさい。」

覚悟?
覚悟ってナニ?

(何言ってるんだろ、この人、頭おかしくなっちゃったんじゃないの?ヘラヘラ笑いながら言うことなの???)

実際、養母はその話を告げた時笑ってました。
人間、受け入れがたい事実を告げられた時は、悪い冗談と思いたいがために笑っちゃうみたい。

最近の養父の疲れ具合、妙な咳、痩せ具合。。。
私には全て符号しました。

( なんで笑ってるんだろ、、、この人。。。)

養母に非常な嫌悪感を抱きました。

切ないけれど養父と養母は、毎日喧嘩ばかりしていました。

でも昭和一桁生まれのご婦人の、旦那に対する苦労話などどれも特別ではなく、誰もが同じ様な体験をしていたように思います。
環境の違いはあれどもね。

お互いの一挙手一投足に、それぞれがケチをつけて喧嘩ばかり。

「そんなに嫌いなら、別れればいいのにさ」

お互いがお互いを貶し合う場面は、ちょっとキツイ。
養ってもらってる身として、どちらかの味方になるなんて選択など出来ないですから。

なんだか家に帰るのが嫌だなぁ。。。

そう思い始めて、養父とも養母とも極力会話を避けてた時期は第二反抗期。
育ててくれた両親を疎ましく思っていた頃に、養父の病が発覚しました。

半年くらい、会話を避けていた時期のこと。。。

「余命3ヶ月」

その宣告はずっしりと重く、養父の余生にこれまでの感謝をどう応えようと思いつつも、反抗期真っ只中の自分である。
急に態度を軟化させたら、養父に病気がバレちゃうかもしれない。
でも、でも、でも!

わずかに残された養父との3ヵ月を平静を装って、今まで通り避け続けるのか、
急に態度を軟化させて、不審に思われながらも優しく接するべきなのか、
当時17歳の小娘には、検討もつかずオロオロしっぱなし。

でも、養母は違いました。
あれだけ悪態ついてたくせに、養父の病を機に、献身的に看病を続けました。
ま、愚痴をこぼすことも多々ありましたけどね(笑)

養父の横暴ぶりに自殺を考えたのも一度や二度ではないというのに、養母の看病に徹する姿勢には
本当に驚きました。
午前8時~13時まで仕事、簡単に食事を済ませ車で30分の病院に行き、2時~5時までの見舞い&世話。
医者の当初の見立てでは「余命3ヵ月」でしたが、養母の献身で1年半長らえました。

あれだけ喧嘩ばかりしていたのに。。。
普段の態度や言葉からは到底伺い知ることなど出来ない、苦労を共にしてきたからこその
悪態なのかと思えば、それは深い愛というより「絆」なのでしょう。


養父の臨終の際、既に意識は混濁し、誰の呼びかけにも応えられなくなった頃。

学校を早退して駆けつけた私が、

「お父さん・・・」

精一杯の言葉を発した時、閉じていた目を明け、苦しい中で言ってくれた言葉が

「オイ、頑張れよ。」

名を呼んでくれた最期の言葉でした。

「頑張れ」なんて陳腐な言葉。
まったく、笑っちゃうくらい陳腐だよ!
でも、涙が出てきやがった。

泣いたらお父さんが居なくなっちゃうことを認めること。。。
必死で堪えてたのに、どうしても止められない。

ああ、お別れの時が来たんだ、、、

そう思っても「ありがとう」の一言はどうしても言えなくて、代わりに養父の手を力いっぱい握りしめました。

この手の感触は、絶対に忘れないでおこうって。
17年間、慈しんでくれた手なんだなって。


養父が臨終の間際にしたことは、養母へ手を合わせたこと。
発することの出来ない気持ちを、精一杯。。。

本来なら楽しいはずの高校生活なんですけど、私は高校生活の記憶がほとんどありません。
高校生活=養父の闘病なのだ。

部活、進学問題、憧れの先輩、、、

そんな話題で青春を謳歌してる同級生を、羨ましいとも思わず冷めて見ていましたね。。。
ま、これも苦いながらも大切な経験であったと思います。
今では立派なオバサンですけどね、小娘の頃もあったのだ(笑)。



後日譚

別に養父の遺品を整理していたわけでもないのですけどね、養父の生前、精米工場として活躍していた場所が
いつしか倉庫となっちゃって(笑)、雑多な荷物が所狭しと占拠していました。
元旦那さんとの別居を機に、新たな荷物を運び入れ使えるものを品定めしている時に、偶然書棚から
若き日の養父の日記を見つけました。

(米穀)組合員との会話、組合との決別、そんな苦悩が綴られた日記で

酔って養母に当たり散らした影には、こんな苦悩があったのかと初めて知った次第。

養母に、『お父さんの日記を見つけたよ』と言って差し出すと、

「何?何これ?」と言って興奮状態。

パラパラとめくって、養父の筆跡を確かめると、まるで少女みたいに日記をぎゅーっと胸に抱いたのだ。

まったく、喧嘩ばかりだったのにさ、養父のことが大好きで、今でも愛し続けてるんだよね!
お父さん、男冥利に尽きるじゃない?むふふふふ。

生まれ変わっても、また夫婦になれるといいね。
もちょっとお互い素直になってさ、、、なんて思っちゃった(笑)

REBECCA MAYBE TOMORROW


YOUTUBUで「never too late」が探せなかったのば残念。

母の日は過ぎちゃったけど、養母に「可愛いよ」って言いたくなったのだ。。。
憎たらしい時もあるけどね(笑)



たぶんゴールデンウィークが明けてからが、この人の人となりが見えてくるのだろうけども。
4月26日の選挙で選出された、河村たかしさんはこんな人。

黒船襲来<中> 揺れる「対決路線」

全国区の選挙で、何度も落選した経緯を持つ。
基盤が無いことが致命傷だった。
一から出直すつもりで、ずっと地道に地方の人と接してきたのが、新市長の河村氏。

まだ議会にも出ていないので、期待は高まっても評価をする段階では無いのはわかってるけどね。
でも、これまでの1千5百万と言われる市長の報酬を、約半額の8百万に下げると公言し、
高級公用車を売却して、軽のワゴンに変えるなど、庶民感情にはガツンとくるじゃない?

(名古屋市長の公用車は内装が豪華なエスティマ、移動中に食事や着替えが出来るように
車高の高い車でした)

でも、通勤は地下鉄とバス。
満員の車内でも「これが庶民生活だがね」と笑って揺られている。

選挙中は旧政権を真っ向から否定したので、批判も多かったようだけど、
得票率は過去最高の50%超、そのほぼ半数の票を獲得したのだから、今までの市政を市民に完全にダメ出しされたのと同じ。

そんな河村市長が、声高に掲げる公約が「市民税減税」。
昨年、所得税減税に伴い、全国の市町村で市民税は引き上げられました。
国税が地方へ渡るのはいいけれど、庶民にとって負担の度合いは一向に変わらないのだ。

理想だけなら誰でも言えそうだけど、でも公約としてはなかなか言えないことだと思う。

自民党の五月蝿いオバサマのKOIKEとか言う人が、「カットばかりで創造しない人」などと、河村さんを散々に批判していたけれど
今まで庶民の財産をどんなに巻き上げても足りない人から言われてもねぇ。。。
この日本も一応資本主義だけど、その昔の封建的な要素は忘れていない。(当たり前だ!)

ご恩と奉公、、、言い換えればgive&take

搾取(take)されるばかりじゃ、何時までも黙っちゃいないってーの。
納税の義務は果たしてる、、、じゃ、政府は何だ?
それを突きつけたのが、今回の一地方である名古屋の市長選挙。

自公惨敗。

それだけで嬉しい~。

「大好きな織田信長になったみたいで、どえりゃー嬉しいでかんわ!」と言った河村氏に対し、
前市長(8年任期満了)が言ったのは、
「三河三英傑で、もっとも優れていたのは泰平の世を築いた徳川家康だと思う、織田が天下をとっていたらどうなっていたか、、、」

黒船来襲。
時代だよ。
屋台骨は腐ってたんだよぉ~。

名古屋市長となると、自動的に鯱さんチームの「取締役名誉会長」の肩書きが与えられるんだけど、
まだ河村さんはそんなこと知らないかも(笑)。
大のドラゴンズファンだというので、地元のサッカーチームにも目を向けてくれそうで期待しちゃう(笑)。

私は鯱さんチームに入って、今年で5年目。
年に4回の取締役会があるけれど、私が知る限りこれもで16回の取締役会のうち、
前市長の松原氏が出席したのは、1回だけ。
アイツは日当が出る仕事か、メディアが動くイベントにしか現れなかった。
はい、もう永遠に下がってください。

ところで河村さん、、、恥ずかしいくらいに名古屋弁でミャーミャー言っとらせる。。。
名古屋弁が全国区になるのも近いかもね(爆)

そんなわけないか(^▽^)


追記というか、、、訂正

1千5百万と言われる市長の報酬を、約半額の8百万に下げる。。。

正しくは2千5百万。
約3分の1ですね。('09.5.4加筆)
 

英少年、両親の家の屋根に巨大な「男根像」描く 古代のシンボルに刺激受け

前のJUGEMのブログは、大好きな「AFBB」のニュースをクリッピング出来たので、良く使ってたのだけれど
こちらではちょっと不自由で淋しい

写真入りのこのニュースは最高に笑ったんだけど(笑)

全文を紹介しますね。

拡大写真


 

【3月25日 AFP】英国の10代の少年が、古代の多産のシンボルに刺激され、両親の家の屋根に約18メートルもの巨大な「男根像」を描いていたことが分かった。同国大衆紙「サン(The Sun)」が24日、報じた。

 ローリー・マキネス(Rory McInnes)さん(18)は前年、米インターネット検索大手グーグル(Google)の「グーグル・アース(Google Earth)」の衛星画像に関するドキュメンタリー番組で見た英南部ドーセット(Dorset)にある「サーン・アバスの巨人(Cerne Abbas Giant)」に触発され、ロンドン(London)近郊にある両親の邸宅が目立つようにと「作品」を描いたという。

 だが、ローリーさんは高校を卒業すると、大学進学前に1年間の旅に出てしまい、両親は、周辺上空を飛行していたヘリコプターの操縦士が「発見」するまで、そのことにまったく気づかずにいた。

 父親のアンディー・マキネス(Andy McInnes)さんは当初、サン紙から取材を受けたとき冗談だと思って否定していたが、4人の子どもに1人ずつ連絡をとって確認した。ローリーさんは父親に「あれを見つけたんだね」と答えたという。

 白亜質の丘の斜面に刻まれた全長55メートルの「サーン・アバスの巨人」は、明らかに欲情したようすの男根を持っている。鉄器時代の多産のシンボルと考えられており、子宝に恵まれたいカップルの間で人気が高い。

 ただし、すでに子どもが4人いるマキネス夫妻は多産のシンボルが屋根に描かれていることに賛成できないようだ。妻のクレア・マキネス(Clare McInnes)さん(49)は「子どもはこれ以上欲しくないから、巨大な多産のシンボルの下で眠るのはちょっと心配」とし、夫のマキネスさんは「ローリーが帰ってきたらきれいに消させる」と述べた。(c)AFP


「あれを見つけたんだね」


キース・ヘリング的な芸術作品であったのかは疑問だけど、『多産のシンボルに刺激され』???
ここは悪戯心に間違いないと思うのだけども(笑)。



こっちのニュースと一緒に読んでみるとまた深い、、、カモ。

「法王印」のコンドーム登場、エイズ対策での発言を揶揄
「I said No !(ダメだと言っただろう!)」


笑った。。。



Juanes-para tu amor

 ご存知!コンサートで女性モノの下着が舞う人。

えーっと、この人は、、、っと。。。


ま、まぁ、面白い話題だったってことでっ(あ、汗)
 

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