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私は人間をはかないものに観じた。人間のどうすることも出来ない持って生まれた軽薄を、はかないものに観じた。

夏目漱石の「こころ」は、以前に読んだことがあります。中学3年か高校1年の頃だったと記憶していますが、わりと正確にその頃だと思うのは、この小説が全く響かない年端だったからだと思います。高校2年以降であれば、主人公の父親が病に倒れ、闘病し、周囲が見守る情景を、全く覚えていないハズは無いですから。現代国語の教科書に載った一部分を、試験対策程度に全文を読む気になっただけに違いないと思います。・・・にしても、この小説はたかが中学生・高校生に理解するのは到底無理ではないでしょうか。少しばかり世間を知り、歴史認識が出来た大人の小説だと思いますので。
まず、文章が「美しい日本語」だと気づく年代でなければ、読む資格さえ無いように思うのです。

新潮文庫の400頁足らずの分量なのだけど、20箇所くらいマークしました。
有名な純文学ですので、あらすじは述べるまでもないでしょうけど、

主人公が「先生」と慕う人物の、罪の告白と自殺のお話。

「先生」が親友Kに、下宿先のお嬢さんに恋慕していることを告白され、同じくお嬢さんを慕っていた「先生」は、少々汚れた策をもってKにお嬢さんを諦めさせ、その結果Kは自殺し、お嬢さんと結婚した「先生」は、後々まで罪の意識に苛まれ、ついに自殺する。

この小説は、あらすじだけを追っていては全く真相に近づけません。
夏目漱石(主人公)の生きた時代、受けた教育、当時の地方と大都会東京、そんな情景を自分の祖父母に重ねながら読むのが正しいと思います。

あとは、表現力に圧倒され思わずマークした箇所を抜粋します。

◆先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快な表現ではなかったのである。痛ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せと警告をあたえたのである。他(ひと)の懐かしみに応じない先生は、他(ひと)を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。(p16)

◆人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、 - これが先生であった。(p22)

◆「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆ど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかいない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生まれた人間の一対であるべき筈です」(P34)

◆「君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」(p43)

◆先生の頭の中にある断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれどもわたしに取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある命の扉を開ける鍵にはならなかった。寧ろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。(p49)

◆私は人間をはかないものに観じた。人間のどうする事も出来ない持って生まれた軽薄を、はかないものに観じた。(p113)

◆私はその時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。 (中略) 私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。(p173)

私は冷かな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかける事が出来るからです。(p190)

◆私はその人に対して、殆ど信仰に近い愛を有(も)っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかもしれませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないという事を固く信じているのです。私は御嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。(p206)

列挙しようと思うとキリがないほど、あれもこれもと、瞠目される表現ばかりです。
夏目漱石が生きた明治という時代。

維新から間もない時代の教育は、江戸時代からそのまま受け継がれたものでしょう。
儒教や日本外史、陽明学。
藩政から開放された庶民は、変わりゆく時代に何を感じ、それまでとは違う教育を求め、何を得たのでしょう?

明治の大文豪は、その繊細な神経でもって時代の遷移による人の心や精神の推移をいち早く感じたのかもしれません。先生の遺書の最後のほうには、こんな言葉が書かれています。

◆私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかもしれませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だか仕方がありません。或いは個人の有(も)って生まれた性格の相違と云った方が確かかも知れません。(p325)

この文章を読みながら、明治という激動の日本が、荒れ狂う海に放り出された小船のようなものに感じました。
新しい生活・文化・慣習についてゆけない者が、振り落とされる時代の到来を、先生とその親友Kの死をもって嘆いたかのようにも受け取れます。
その後、太宰、芥川、川端のような能ある文豪が、「何故?」という疑問のうちに死に急ぎましたが、それを予見するかのような小説「こころ」。

この小説が書かれて約百年後の現在、先生と友人Kの自殺に共感し同情する若者はどれほど居るでしょうか。
理解できないだろうけど、この日本語の美しさだけでも感じて欲しいと思います。
思うに、日本人一人一人に、思想・信条・信仰を持っていた時代は、どんなに荒れてはいても今ほど酷くはなかったように思いますので。




最近のJ-POPはつまらないけど、彼らはちょっといいね。
サカナクションという北海道出身のグループだそうです。

モラトリアムを嘆くようなこの曲の歌詞にはぐっときます、それ以上にPVが素晴らしいです。
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昨日は七夕さん。
その日の明け方、同僚の男性の3人目の家族が誕生したそうな。めでたし。
七夕生まれの女の子なんて可愛らしいなぁ、、、と思うけど、ちょっと待て、やっぱり思い人と一年に一度しか会えないなんてことを可愛いと思ってしまうのはどうなんだろう。
ま、願い事が叶えてもらえそうではあるけれど。

そんなことを思いながら帰路につき、マンションの下のカフェバーの入り口を見れば、場違いではあるけれど趣のある笹があり、短冊が飾られてありました。
先日、近くの商店街で七夕祭りがあり、子供達の夢を綴った短冊を目にしてきたばかり。

「サッカー選手になりたい」

「お菓子屋さんになれますように」

こんな可愛らしい願いが、ところ狭しと笹にぶら下がっておりましたが、笹は決して重そうには見えず、さらさらと堂々と誇らしげにも見えました。

さて、大人が集うバーに飾られる短冊には、何が書いてあるんだろう?
そう思って手近な短冊を手に取ってみると、、、

「吐かない」

「痩せたい」

・・・・・・・・・。
可愛くもなんともない。笹が大層重そうで気の毒になっちゃったよ。

話は変わりますが、今また、村上春樹さんの「1Q84」を読み返しています。
絶対に無いと思っていたBOOK3が発刊され、それだけでもド吃驚なのに、あろうことか死んだはずの青豆が生きていて、天吾の子供を生むと聞き、やっぱり男性作家だなっと。
女は嘘つきな生き物だと言いたいのかしらん、、、と思いました。

2ヶ月程前に買い求め、なかなか読めずにいた本(BOOK3)を手にとって読み始めたけれど、のっけから牛河なる人物が、胡散臭い人物だったという印象以外、どういう人物だったか思い出せない。
そんなこんなで、またBOOK1から読み直しているんだけど、1年前に読んだ印象とは随分違う。

なぜだろう。それは私が変わったからだろうか。

私がこの本を読んだ1年前といえば、世間では「政権交代」が叫ばれて湧いていた頃だった。
その「夜明け前」のような時節には、物語の冒頭で紹介されるヤナーチェクのシンフォニエッタは、確かに示唆的で時代を映すかのようで、現実の時代と物語をシンクロさせる音楽だったのだけれど、1年後の今は、ファンファーレは鳴り響いていない。

改めて読み返していると、この本には、驚くほど多くの音楽が流れている。
ジャズ・ポップス・ロック・クラッシック。
そして、私が無意識に読み飛ばしていた場面が、驚くほど多く描かれていたことを思い知らされました。

初めて読んだ時はヤナーチェクだったけど、今は、ジョン・ダウランドのラクリメがしっくりとくる。
政権交代のファンファーレは、もう鳴り響いていない。
ピエタの時代。

始めは特にナンとも思わなかった、あゆみ(青豆のパートナー)の言葉が、一番効いた。
この時期(選挙前)だからなのかな?

実体みたいなのはろくすっぽないんだ。教義的には脱構築っていうかなんというか、ただの宗教イメージの寄せ集め。そこにニューエイジ精神主義、お洒落なアカデミズム、自然回帰と反資本主義、オカルティズムのフレーバーが適度に加味してある。それだけ。実体みたいなものはどこにもない。ていうか実体がないってのがこの教団の実体なわけ。マクルーハン的にいえば、メディアそのものがメッセージなんだ。

あゆみは、「そのへんがクールといえばクールだよね」と言ったけれど、この台詞を読み返してみたら、ぞわっと寒気がした。

オカルティズムを備えた政党は、公明党や共産党だけだろうか?
消費税増税論は、オカルティズムでは無いと言い切れるのかな?

「見かけにだまされないように」

何故か東京にばかり目立つ高層ビル。
夜には輝けるコラージュだけれど、あれは本当に美しいのだろうか?
アタシには墓標にしか見えないけれど。

発信される禍々しい情報は、いつも大都会東京からのもの。
弱者も地方も想定していない、一方的で圧力的なプロパガンンダに恐怖してしまう。。。





只今BOOK2の、青豆が「さきがけ」のリーダーと対面する直前。すみません、少しばかり更新が遅れます。

カミュの「異邦人」を繰り返し読んでいます。
この本に初めて出会ったのは高校生の時。

「不条理」に際し、人がどのように対処するのか、或いは本意が捻じ曲げられて世間に伝播してしまうのかを、ユルユルの頭でも一生懸命考えたものでした。

イカれた若者のつまらない話だと思った当時の拙い感想は、今になってとんでもない間違いだったと思う。

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。

肉親が死んで、笑うことを許されるのは何時からなのか?
喪が明けるまでは笑ってはいけないのか、映画を見てはいけないのか、異性と関係を持ってはいけないのか?

初めて読んだとき、イカれた若者だと思った主人公ムルソーは、イカれてなどいない。
ごく普通の人だった。

母の死の翌日に海水浴に行ったことが何だというのだ。
女と関係を結んだことが何だというのだ。
映画をみて笑ったことが何だというのだ。

しおたれて神妙にしていることだけが「よし」とされるのだろうか。

改めて読み返し、この本に具体的に書かれていないムルソーの行動にこそ、真のムルソーが浮かび上がってくる。

母が死んだ4日後の休日、通夜も葬式も終えた彼は、バルコニーに椅子を運び、一日をぼんやりと過ごします。

この何もしない(手につかない)一日が、重要なのではないか。。。
見慣れた日常を、とつとつと、眺め、何らか変わらないことを見出す。
その場面が、とても重要だと思う。

何が起こっても、世間には何の影響もない。

人生の無意味さと、人生の無償を感じた瞬間ではないだろうか。

養父が亡くなった日のことを思い出しました。

通夜と葬儀のために帰宅する途中、兄が運転する車窓には、平和な家族を運ぶ車が見え、長閑な田園風景がどこまでも広がり、やわらかな日差しがフロントガラスに注ぐ、何時もとなんら変わらない情景。

自分にとって大切な人が逝ったのに、世間には何の変化もない。
今思えば当たり前のことだけど、それを思い知った時は衝撃的だった。

私はなんとか今尚、この世でまっとうに生かされているけれど、人生の無意味さと、人生の無償を知ったあの衝撃は、自暴自棄になるには十分だったと思う。

カミュの異邦人は破壊と破滅の話だけれど、多くの命題が隠されていると思う。
無意味な人生、無償な人生とどう向き合っていくか。
人はどのようにも転ぶけれど、どのようにも飛躍することも許されている。
自分の到達点を勝手に決めてはいけないし、他人をそのように見てもいけない。

人の敵って何だろう?

折れてしまう程の敵って何だろう?

それは、人それぞれだけれど、平たく言えば「不条理」ってやつだろう。
こいつに立ち向かうには、やっぱり一人では無理かもしれない。。。


思い出だけではつらすぎる 中島みゆき






捨てるほどの愛でいいから 中島みゆき



 みゆきさんが好きな理由は、繰り返される「あなた」という言葉に、普遍的な匂いを感じるから。
不条理に立ち向かう勇気とヒントを与えてくれそうだから。
 

11月始め、せっかくの4連休だったと言うのに、なんだか頼りなく過ごしてしまった2日半。
最後の1日半はゆっくり本でも読もうと、何冊かの本を抱え、でーんとリビングの真ん中に座しページをめくる。

外壁工事の刺激臭が部屋の中にまで及んできた。ちょっとヤダな。。。

連休の1週間前くらいに、レヴューを見て買い求めた何冊かの内の2冊を選んで読み始めました。

◆一冊目

41T1SRQ0LiL__SL500_AA240_.jpg真鶴 (単行本)
川上 弘美 (著)

失踪した夫を思いつつ、恋人の青茲と付き合う京は、夫、礼の日記に、「真鶴」という文字を見つける。“ついてくるもの”にひかれて「真鶴」へ向かう京。夫は「真鶴」にいるのか?


 

この物語に、「幽霊」みたいな存在が随所に現れて、主人公と会話をしています。
超常現象満載なのだけど引き込まれてしまったのは、私が大の川上弘美ファンってことに起因してるけれども、それ以上に、読み進むうちにこの現象は超常現象でもナンでもなく、リアルな人間の日常だと感じたから。

呆っと何かを考えてしまう時があるけれど、その時何を見ているのだろう?誰と対話をしているのだろう?
その時に必要な、過去や未来を喚起させているので、目の前のテレビの映像など、視界に入っているはずなのに脳には映さない。
思考の中で誰かを登場させ、その人物に話しかけてしまう行為は私だけではないはず。
一体誰に話しかけているのか・・・。

おそらく事の善し悪しを提言してくれそうな者であり、己に都合の良い会話をしてくれる者であり、己が知りたくとも知り得ぬ情報を提供してくれる者。

それがこの物語の中の「ついてくるもの」だ。

呆けていながらも、案外自分に都合の良いように考えている。
そして、現状を留めるために問い、或いは現状を打破するために問い。。。

己が語り、紡ぎ出す「ついてくるもの」は、一体何者だろう?
ま、己の思考の範疇の「漠とした何か」なのだろうけど。

真鶴は叙述的な作品だった。
概ね簡単な文で占められているので、単調で退屈と思われるかもしれない。
現に、主人公は平凡な主婦だし。

それでも、この一見叙述的なだけの物語に、深い奥行きを感じてしまうのは、さまざまなオブジェの配置の仕方なのだと思う。

夕飯の献立や、庭の紫陽花や、池でとってきた蛙のタマゴや、衣替えのための衣服の入れ替えの際のナフタリンの匂い。。。
そんなオブジェが登場した後の、主人公がぼんやりと思ったこと、家族がぽつりと言った一言が、なんとも言えない世界を拡大させる。
物語には関係なさそうな文言が、登場人物達関係の遠近をひっそりと告げている。
そのオブジェを探すのが好き。

主人公が、失踪した夫の名前を口に出して言う箇所が随所に出てきて、その度に「ついてくるもの」が登場する。
きっと呆けて名前を呼んだのだろう。
そして「ついてくるもの」に、何をかを問うているのだろう。
その辺りに、断ち切れ無い強い「愛憎」を感じてしまう。

かく言う私にも、数年前に別れた(失踪した)♂にもかかわらず、たまさかに口に出してしまう名前があり(笑)。

それだけに、シュールな作品が超リアルに感じられた。

「ついてくるもの」が幽霊なのだとすると、幽霊が自己観測上でしか捉えられない存在である限り、ソレは自分自身の結晶のようなもの。
そう会得したとたん、善悪・正負・希絶、すべてを孕む「ついてくるもの」と旅に出たくなる。

解説の中に、こんなことが書いてあった。

現代文学における幽霊の重要性を理解するための小さな見取り図―
ものすごく簡単に言ってしまえば、文学は幽霊のことを扱うはずのものだったんじゃないか、と呟いたのが村上春樹。
そんなのあたりまえじゃん、と応じたのが川上弘美。
これが現代文学の転機と洗練の内実だ。


川上弘美さん、、、流石である。大好きである。


◆二冊目
51TohTdKfrL__SL500_AA240_.jpg魚神 (単行本)
千早 茜 (著)

かつて一大遊郭が栄えた、閉ざされた島。夢喰いの獏、雷魚などの伝説が残る島で、本土を追われた人々は自治組織を作り、独自の文化を営んでいる。捨て子の白亜とスケキヨは、この島で捨て子の姉弟として育った。





今年の初め、第21回小説すばる新人賞を1受賞し、2009年10月には泉鏡花文学賞を受賞した作品。
選考委員からは、「もの凄い新人が出現した!」っと大絶賛だったようです。

が・・・。

舞台設定が非常に面白くて一気に読んでしまいましたが、先に川上さんの「真鶴」を読んでしまったためか、それほど「もの凄い」感じは受けませんでした。

村上春樹の「1Q84」を平たくしたら、こんな感じになるのかな、、、なんて思いました。
思春期の強い思慕、意志、そこんとこの描写は、何だか同じテーマを訴えているような気がします。

この作品もまた、幻想的な作品でして。

スケキヨが青豆で、白亜が天吾で、、、いや、まてよ、やっぱり逆かなぁ、、、などと要らぬ想像を膨らませました。

時代背景も場所も不詳で、幻想的な匂いばかりが漂う舞台。
勝手な思い込みかもしれないけれど、退化していった日本の未来のような感覚がしました。

島民は皆貧しく、海は腐臭に満ち何処へも逃げる場所など無い。
この島に生まれると、女は遊郭へ、男は妓夫か町の自治組織に入ることが決まっている。
決して抗えない運命を受け入れざるを得ない者達は、当然に荒み、夢も希望も無い。

そんな環境の中で生きねばならない者にとって、何が「原動」となるのか、、、。
貧しくて狭い世界では、結局そうなるのかな、っとたっぷり考えさせられました。

殺伐とした現代において、象徴的な一冊。

「原動」を持たぬ者は荒れて不義なる者となり、簡単に人を傷つけ殺めるのは頷けないでもないけれど、傷つき殺められるのは、不義なる者ばかりではない不条理。
「原動」を持ってはいても、一縷の望みさえなかなか手に入らないばかりか、手に入るとは約束されていない。

折れちゃうよね、、、折れちゃうよね、、、。


If we hold on together


でも、誰一人たりとも、折れることがありませんよう。。。


★お知らせ★
わたくし事ですが、只今自宅マンションが外壁塗装工事を行っており、強烈な刺激臭にやられて体調不良です。
最近は実家から通勤したりしていますので、ブログ更新とコメントが遅れると思いますが、来週には終わりますので、長い目で見守ってくださいませ。
よろしくお願いします。
字面を追うだけなら、決して難しい内容ではありません。
しかし、この内容の深淵は、当事者レベルにまで想像を膨らませることが可能な人でない限り、到底安易な共感を語ることは出来ない激烈なものです。

今は引退してしまったかつての豪腕政治家野中広務氏と、人材育成コンサルタント辛淑玉氏の対談形式の一冊です。

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辛氏が言うように、私も政治家野中広務氏には、とても興味がありました。
そこには、ありきたりのつまらない政治家とは違い、表の顔はタブーを恐れず、官僚にも公明党にも、地方政治にも斬り込む鋭さと恐さを湛えながら、一方では弱者に今まで誰も見せたことのない優しさを投げる。
そのギャップがずっと気になってました。

対世間的に、相当なハンディキャップ(アタシはそう言ってしまうことにも抵抗がある)を背負い、微動だにしないと思われる社会に、勧善と立ち向かった人達です。

野中氏の、ハンデをも意に介さずバネにする強さには感動を覚えました。

もちろん、彼の「功」もあれば「罪」もあります。

その罪の最もたるものが、
自自公政党の擁立、ガイドライン法案制定、加藤紘一氏の切捨て。

暗躍し影の総理大臣とも言われましたが、私は氏のやり方は間違ってはいないと思う。
正しいとも言えないかもしれないけど、既存の政治家よりよっぽどマシ。

彼は、一見汚いやり口のような妥協(談合)で融和を図りました。
それを旧態と嘲笑う人もいるかもしれないけど、少なくとも森政権以降、都心と地方、官と民で争い続け泥沼になった事態を、誰が収拾してきたでしょう?

旧態体質を良しと言うわけではないけど、二大政党政策が良いとも言えない。
日本人には日本人ならではのやり方がある。
確たる主張も無いくせに、なんでもかんでも欧米に倣う政治家などは非常に胡散臭い。

それだけで考えてみると、やっぱり日本には伝統的に二大政党制は似合わない。
小選挙区制より、中選挙区制がいい。
この本を読み、憎まれ役を買って出てダーティーなイメージが定着した野中氏(元自民)だけど、弱者へ向ける視線は、現在の政治家の誰よりも優しかったんじゃないかと思います。
そこには身ひとつで叩き上げてきた信念がある。

敵味方関係なく、必要とあらば誰とでも手を結ぶやり方は「日和見」的で「コウモリ」と公然と揶揄されたけれど、しかし、彼は地方と被差別集落(いろんな意味で)に改革をもたらしました。
コウモリのレッテルをいただきながら、では現在、誰が彼の功績を継ぐことができるだろう?

日本人は基本的に、白黒をはっきりつけられない人種です。
政治家もしかり、一般人もしかり。

◆ね、とらちゃん、今月交際費使いすぎちゃった、、、出張精算遅れちゃった、ね、なんとかして。
  絶対埋め合わせするからさ、ね、ね、ね?

政治も同じ様なものだよ。

◆わぁーったよ、じゃあさ、こっちは黙っててあげるから、この法案を通してよ。

なんだかんだ言っても、日本人はそういうトコがある。

もちつもたれつ。。。

これも問題がないとは言えないけど、自民の55年体制はこうやってきたのだ。
それが正に日本人の体質だと思う。

それが狂ってきたのは苦労知らずの2世議員、2世閣僚が台頭してきたからではなかろうか。
清廉潔白さをアピールしつつ、親の七光りで確固たる政策も信念もないまま旧態依存の世界に飛び込み、
誰にも気をつかうことなく偉そうな顔をしていたから、官僚に馬鹿にされ、メディアに馬鹿にされ、経団連に馬鹿にされ、食いものにされたのだと思う。

自民然り、民主然り。

地方の顔役、民政官、議員、市長、知事、国会議員、閣僚。
基はと言えば揉め事のまとめ役。
汚れ役でもあり、嫌われ役でもある。

ダーティーは部分はどうしても払拭できない。

けど、無理に隠そうとして清廉潔白さを前面に押し出すから、何かあった時に叩かれる。

談合とか癒着を礼賛するつもりはサラサラないけど、「もちつもたれつ・・・」。
過去の政治家はそうやって政策を通してきた過去がある。
それを忘れていない人々が多いだけのこと。

啖呵を切っても政策を実現できそうもなく、政策転換しようとしている現政権より、よほど戦っていたんじゃないかな。

それでも「馴れ合い政治はけしからん!」と言うなら、そいつらを手玉に取れるくらいの力量を備えた現在の政治家は?
自ら汚れ役を買って出る政治家は?

ハイ、脱力。


少し逸れてしまいましたが、本の事に戻って。。。

なるたけフラットな立ち位置で読んだつもりです。
でも、野中氏には惹かれましたが、辛氏には好感を持てませんでした。
対談を纏める役割を担い、さぞかし緊張していたのだろうと想像はつくけど。
野中氏への斬り込み方は鋭いのに、その(野中氏への)応答が感情に走り過ぎてる感が否めない。

インタビュアーであり会話の進行の都度、丁寧な解説する辛氏。
彼女に対する知識は一片も持っていませんでした。
だからフラットな立場で読んだつもりなのですが、、、。
んー、アタシは彼女のその境遇に、過去の辛酸に憂いはするけど同調は出来無い。
それは彼女が在日朝鮮人だからではなく。

やたらと感情に走るところが煙い。

もう少し、差別について語るなら、被差別の当事者として冷静な観点を持って欲しかった。
(冷静ではいられない、生々しい過去が想起されたかもしれないけど、書籍になるのだからさ。)

重ねて言いますが、私は決して旧態の馴れ合い政治を礼賛してるつもりはありません。
けれど、そういう体質が出来上がっちゃってるんだから、新政権が樹立されたからって、簡単には切り崩せ無い。

野中氏のような老獪な傑物が、新政権に居ないのが残念。

自民に随分啖呵を切ったくせに、遅々として進まない公約実現。

ま、今更妥協も出来無いのだろうけど。。。

人のための政治を実現するため、せいぜい頑張ってください!


Bach -- Passacaglia in C minor, BWV582-A

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