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みゆきはんの古い曲が無性に聞きたくなりました。
♪店の名はライフ自転車屋の隣り どんなに酔っても 辿り着ける♪

昔の田舎の商店では、猥雑で下品な言葉が飛び交っておりまして、閉口することもしばしばでしたが決して忌み嫌ってはいませんでした。「店の名はライフ」の通りに、何処の商店も人を相手に商売していました。猥雑の中に人が生きていると、決して諦観ではない、下品な笑いの中に垣間見ることができました。

どんなに酔って辿りついても、今は人の良さそうな昔の店も店主も居なくてさ、
♪店の名はライフ 今や純喫茶 頭の切れそな 二枚目マスター♪

容易にもたれかかることの出来ない時代を象徴するのが、頭の切れそうな二枚目マスター。
思想の変遷、言論の変遷、その門口にいるのが「頭の切れそうな二枚目マスター」なんだろうなぁ、、、と何とはなしに考えていたら、その二枚目マスターが何故だか姜尚中氏と重なるのはなぜだろう。。。
誰をも悪者にしない中庸的な思想の持ち主。極めて敵を作ることを避けていそうな氏を信用することが出来ないでいます。氏を見るたび、夏目漱石の「こころ」で先生が語る言葉を思い出します。

私は冷かな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかける事が出来るからです

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北京メディアウオッチ 〔ブログ〕より転載


第32回北京日本人学術交流会に寄せられた大石又七氏のメッセージ


私は元第五福竜丸というマグロを捕る漁船の乗組員で、アメリカが広島型原爆の約1000倍、15メガトンという巨大な水爆実験を行ない、その爆発で起きた大量の『死の灰』を浴び被爆した大石又七というものです。このマーシャル諸島のビキニ環礁は、負の遺産としてこの度、世界遺産に登録されました。

 アメリカ軍は、1946年から1958年にかけて、このビキニとエニウエトク環礁を使って67回の大気圏核実験を行ない、合わせて100メガトンの核爆発を繰り返しました。
 この間、日本の1000隻におよぶ漁船が被爆しています。

 この爆発は、なんと広島型原爆を毎日一個ずつ18年間落とし続けた量に匹敵するというから驚きです。それらの放射能は半減期が何十年、何百年というもので人間の骨の中に入り込み、染色体を傷つけながら体の内側から攻撃するという内部被爆を起こしていたのです。染色体を傷つければ死産や奇形児の原因を作りだし、子孫へと繋がっていきます。これが水爆の恐ろしいところです。骨の中では造血細胞が白血球や赤血球、血小板などを作り出して人間は生きています。それらを時間をかけながら破壊し、がんなど作り出していました。
 白血病や骨肉種を起こすストロンチウム90、甲状腺がんを起こすヨウ素131、遺伝子を狂わせるセシウム153、中には半減期 (半分になるのに) が2万4千年かかるというプルトニウム239が含まれています。

 この事件の重要なのは、目に見えない放射能というミクロの世界であるということです。半減期の長い放射能が食物連鎖や風などに乗って地球上を漂い、誰のどこに取り付くかは現在の医学では計り知ることは出来ません。

 1940年代から50年代にかけて核実験が地球上のあちこちで始まりました。大量の放射能が大気圏や地球上に振りまかれています。そのことを裏付けるように60年頃から世界でガン患者が急増し、日本でも今死亡率のトップはガンで、年間35万人といわれています。
 私は、この放射能がその一因になっていると思っています。
 この重大な問題は黙って見過ごすわけにはいきません。

 私たち23人の乗組員の内、半数がすでに被爆と関係あるガンなどで亡くなっています。私も肝臓ガン、最初の子どもは死産で奇形児、今も白内障、気管支炎、不整脈、肺には腫瘍を抱え嗅覚も消え、三二種類の薬を飲みながら命をつないでいます。しかし日米政府はこの大事な事件を被爆者や被害者の頭越しに政治決着を結んで解決済みにしたため、私たちはその時点から被爆者とて認められず亡くなっても発病しても援助も治療も受けていません。

 私も他の被爆者と同様、差別や偏見を恐れ、その上共産党の回し者のように揶揄され、東京の人ごみに逃げ込み隠れていました。だが、仲間たちが一人ずつ亡くなって行き自分にも次々と不幸が襲ってくる。この恐ろしさが何事もなかったかのように忘れられていくことの悔しさが募り、当事者が声を上げなければ又必ず起きる、繰り返されると思うようになって、その後からは何十年も内部被爆と核兵器・放射能の怖さを伝え続けてきました。
 ビキニ被爆事件は日米の政治がらみのため、識者の中には判る人もいますが、元漁師で洗濯屋の親父が一人で訴えても振り向いてはくれません。

 東日本大震災、大地震が3月11日とうとう牙をむきました。そして恐れていた原子力発電所が高さ15メートルの大津波で破壊され、大災害の上に放射能が襲い掛かっています。被害を被っている人たちの心境はいかばかりかと胸が痛みます。

 苦しんでいるさなかに不謹慎なことかもしれませんが、私は一言いいたいです。

 東海村の原発とビキニ事件は大きな関わりがあるからです。だが誰の口からもビキニ事件という言葉が出てきません。ビキニ事件が当時、核、放射能の恐ろしさをあれほど警告して証明したのに、日米政府はわずか9ヶ月で政治決着を図り握りつぶしました。私たちはその時点で被爆者ではなくなり、何の援助も補償も受けられなくなりました。
 そして、こともあろうに被った膨大なビキニ被害額やアメリカの核実験容認などを取引材料にして水面下で原発技術や原子炉をアメリカに要求し、東海村に導入したのです。後にアメリカの国立公文書館からそれらの資料が見つかり明らかになりました。

 原発導入に対しては、当時大勢の人たちが日本列島には活断層が網の目のように走っているから危険だ「原発は核兵器と同じもので危ない」といって反対してきました。その答えが今出ているのです。もし直下型だったらどうなっているだろうか、北海道から沖縄まで、いや世界中に広がり大変なことになっていると思います。
 ビキニ事件以来、歴代の政権は核兵器と放射能の恐ろしさを隠したまま安全だ安心だといって国民に少しも教えてきません。これこそが重大な流言飛語ではないでしょうか。そのため大人になっても怖さを知らず反対もしない。目の当たりにして初めて驚き、恐れおののいているのだと思います。
 それは科学者も政治家も同じで自ら原発は安全で安心だという幻想をいつの間にか信じてしまい、この凶器を利益を追求する企業に持たせてきました。企業には事故がおきても賠償する能力などなどないことは素人にも分かります。

 ビキニ事件後に生れ、原発の成り立ちを知らない政治家たちがまるで現政権の責任でもあるかのように国会で騒いでいますが過去をもっとしっかりと勉強するべきだと思います。
 原発導入に関わった者たちは、原発に有利な計らいをしてその見返りに政治資金や地位、財産にもありついてきたはずです。自分たちの過ちで大勢の人たちが苦しんでいるのです。責任を感じるなら溜め込んだ財産や資産は苦しんでいる人たちの前に差し出し、頭を下げて施設住宅に入り、発電所の中で自ら陣頭指揮をとるのが人の道ではないでしょうか。

 あと一つ言いたいことがあります。アメリカ軍と軍事同盟を結び、毎年5兆円もの税金を使って人を殺す為の軍事訓練を重ねている自衛隊は、日本国憲法に従って今すぐにでもやめ、災害救助隊に替えるべきだと思っています。私は何年も前から子どもたちの前でこのことを言い続けてきました。災害地の現状がテレビで映し出されるたびに、災害救助のヘリコプターが今出動していたら助かるのに、飢えと寒さに震えているあそこにはヘリコプターなら行ける、有事なのだ。イライラしながら見ていました。

 核兵器を積んで他国を攻撃する最新鋭のハイテク飛行機は要らない。ミサイルやたくさんのレーダーを搭載して人を殺しに行く4000億円もするイージス艦も要りません。
 自衛隊員の姿を映像で見たのは確か災害発生2日後だったように思います。外国からの援助隊は敏速でした。嬉しかったです。

 憲法九条を持つ日本が世界に貢献する道は、毎年繰り返される災害に貢献する災害救助隊だと思います。一刻も早く出動し、助け、喜ばれ、信頼される。これこそが核兵器や戦争を無くして平和に近づく早道で、21世紀の『人類が目指』なければならない方向だと思っています。     

     2011年4月22日                         
ビキニ被爆者 大石又七


[大石又七さん プロフィール]
 1934年、静岡県榛原郡吉田町に生まれる。1948年から漁師となり、1953年に新たにできたマグロ漁船第五福竜丸に乗船、5度目の航海中の1954年3月1日、ビキニ環礁で被爆。
 長い入院生活の後、東京でクリーニング店を営みながら、自らの体験談を中心に核廃絶や平和を願って活動している。


('11/6/9追記)

大石さんは20歳で被爆し77歳になる今日まで、57年もの間、被爆に対する無理解による差別と戦い、ビキニ事件を無かったこととする政府、マスコミ、世論と孤独に戦い続けてきました。
57年と言えば、半世紀以上です。
その間、誰も耳を傾けなかったのは、大石さんが自嘲気味におっしゃるように「元漁師で、洗濯屋の親父の叫びなど、誰も聞いてくれなかった」のでしょう。
東電の女性社員が福島第一で被爆したことに、厚生省は大騒ぎで調査をするけれど、ならばその基準で福島の住民、特に子供達の被爆調査も同様に大きく騒がなくてはいけないのに。

彼に一体どんな落ち度があったのでしょうか。
被害に遭い、守ってくれるハズの日本国政府はアメリカと政治解決し、医療保障も無い事に怒りの声をあげたら、共産党呼ばわりされて被爆以上にいわれの無い差別を受けてきたのに。
「核はいやだ!」それだけの主張をしている、それだけなのに、それでも政府は原発を推進するというのか。。。

現首相の名前など、忘れてしまうくらい嫌いだけれど、それでも浜岡を止めたし、脱原発宣言ともとれる「自然エネルギー」へシフトする考えも示しました。もちろんパフォーマンスなのでしょうけど。
しかし、それを機に、こんな時にでも与野党から「菅おろし」の政局に持ち込む声があがっているのを見るにつけ聞くにつけ、「菅氏に任せてはおけない!」という大合唱となるのは受け入れられません。
東日本大震災から3ヶ月を過ぎようとしているのに、不自由な避難所暮らしを強いられている多くの人々を尻目に、与党も野党もないだろうに!っと憤慨していたら、、、あ、大連立だそうです(爆)。
消費税増税、TPP加盟、道州制導入が柱だそうです。

悲しいことに、対立政党なし。これを翼賛といい独裁というのではないのかぁ。

耐えがたきを耐え、、、の時代みたい。。。

気持ち悪いですね。。。。

◆6月5日(日)、養父の27回目の法要のため実家に帰りました。実家まで駅から徒歩5分の道のりなのですが、シャッターが下りて「閉店」の張り紙がある店と新しくオープンした店ばかり目につきました。豊田スタジアムで試合がある時は、たまに実家に泊まっていたけれど、最近はあまり立ち寄らなくなっていました。駅を基点にスタジアムとは反対方向にある実家の界隈は、来るたびに変わっている感じで落ち着きがない町に成り果てました。その世界では全国的に有名だったバレエ教室も移転してしまったのか、そのビル自体が飲食系の雑居ビルになっていました。車の利用者が圧倒的に多いこの町で、駅周辺の居酒屋が繁盛するのは、サッカーの試合がある時くらいなのに。学歴とか身につけるモノのブランドを気にする現代人みたい。中身は空っぽ。思えば20年ほど前、駅に直結して高級デパート(そごう)が出来てからこの町はおかしくなったような気がします。だいたいそれまで農業と製造業で成り立っている田舎の保守的な女達は、割烹着にサンダル姿で、そごうに出かける素朴な人たちばかりでした(笑)。高級デパートの商品の価格を見て、当然のように生協や農協、小さな個人商店やスーパーと比較して目の玉が飛びだすほど驚いていたのだから、デパートなんて全く異質なものでしかありませんでした。はい、当然閉店しまして、今は大丸松坂屋が細々と営業しています。ここで一番客の入りがいいのが、100円ショップとユニクロだとか(笑)。もともと、新しいものは容易に受け付けない土地柄ですからね。新しい店を横目に、何時までもつのだろう、なんて思ったけれど何度も何度も見てきた光景。町並みはどんどん綺麗に整備されているけれど、不似合いなほどに古いお店というのが、昔から変わらない「自慢の味」を持った御菓子屋さん だったり、コロッケが売りの精肉店だったりします。懐かしい。まだ変わっていないことにほっとします。

◆旦那寺へ向かう道すがら、車窓を眺めて変貌した町並みを見ていましたが、市街地から離れること10分程で、他地域はそれほど、、、いえ、全く変わっていないことに気づきます。世界的に有名な某大手自動車会社に続くこの道は、30年前と変わらない片側一車線の国道。今でも毎朝大渋滞だそうです。地方自治体が国有地(この場合は国道)を買い取るってことはできないものかなぁ。出来るのであれば、なぜ馬鹿みたいに儲かっていた時期に買い取らなかったのだろう。うちの旦那寺は、在原業平の伊勢物語に登場するかきつばたで有名なお寺(無量寿寺)の近くです。年忌の時くらいにしか訪れないところなので、道もちゃんと覚えていないのだけれど、市街地から遠く離れた場所はやっぱり変わっていません。狭い道を右折し、お寺の石垣が見えました。おそらくここは、40年も50年も変わらない景色、、、というか、空間なのでしょう。

◆法要が始まる前に、お寺の住職さんから小さな冊子を受け取りまます。読経の後に、皆で唱和する『正信偈』なるもの。はい、うちは浄土真宗大谷派、お東さんです。じいちゃんもばあちゃんも、伯父も伯母も、養父も実母もお東さんに倣ってきました。『正信偈』は何度も目にし、唱えたものですが、これが経典ではないってことを始めて知りました。釈尊が残したものだけを経典と言うのであって、浄土真宗の始祖たる親鸞が残した『難異抄』と同じく、真理を求めた者がようやく辿りところを記したものに過ぎないのですって。仏の教えと言うより、どう解釈すれば良いかの親鸞聖人独自の説明であり、讃美し感謝して有り余る親鸞聖人自身の気持ちに過ぎないらしいのです。親鸞聖人自身は、かつて貴族のものでしかなかった仏教信仰を、一番救われなくてはならない庶民達に広めました。罪とか業とか贖罪とか往生とか、経典の理屈は自分(僧)が担うから、何も知らなくてもいいから、この念仏を唱えれば救われると残したのです。言霊信仰でもあるよね。なんまんだぶ、なんまんだぶ。たまたま『一個人』という雑誌の表紙に「美しい日本の言葉」なんてキャッチがデカデカと載っており、パラパラと捲っていたら、親鸞聖人のことが書かれておりました。養父の(最後になるかもしれない)年忌にあたり、親鸞聖人が残したものに興味が向かいました。

正信偈現代語訳
http://www.gobosama.net/gendaigoyaku/index.html

驚いたのはこちら。
http://j-ken.com/category/all/data/753192/

真宗宗歌

作詞 真宗各派協和会
作曲 島崎 赤太郎

1 ふかきみ法(のり)に あいまつる
  身の幸(さち)なにに たとうべき
  ひたすら道を ききひらき
  まことのみ旨(むね) いただかん

2 とわの闇より すくわれし
  身の幸(さち)なにに くらぶべき
  六字のみ名を となえつつ
  世の生業(なりわい)に いそしまん

3 海の内外(うちと)の へだてなく
  み仏(おや)の徳の とうとさを
  わがはらからに 伝えつつ
  浄土(みくに)の旅を ともにせん

キリストさんの賛美歌と何が違うんだろ。。。しかし、やっぱりインターネットって便利ですね。20年前だったら、決して「正信偈」の意味に簡単には辿りつけなかったと思います。

◆久々に会った甥っ子は既に二十歳。小学生からずっと野球を続けていて、野球推薦で高校に進学したけれど、プロの道は厳しいです。毎日毎日、暗くなるまで家の前で素振りをしていたのを知ってる。プロになる夢が潰え、かける言葉も見つからないまま再会。まったく、、、茶髪・ピアス・喫煙。見た目は決して麗しくなくなっちゃってました。そんな甥っ子が4月の下旬から5月の上旬にかけて、福島の郡山へ復旧支援のため出張ったそうです。「あんなにニュースで騒がれて問題になってんのに、町の雰囲気はここら(豊田市)と変わらないのに、郡山の子供達はフツーに通学してんですよ、雨とか降ってきても、濡れちゃっててさ。平気なんかなぁ??自転車で元気よく駆け抜けて行くんっすよ。。。ありえねーと思ってさ、落ち込むっつーか、悲しいっつーか、、、確かにどうにもならないかもしれないけど、俺じゃナンともできないけど、『なんか違うだろ』って思った。なんかすごくショックだった。あれ、なんなのかな、そこで生きていく覚悟なんかな?雨なんかに濡れんじゃねーよ!って思ったけど、何も言えんかった。」でかい図体の甥っ子が、声をひそめてそう言いました。見てくれはやんちゃなんだけど、その感性が嬉しいよ。相当ショックを受けているように思えたのだけど、脳天気な兄は、甥っ子の気持ちをきちんと酌んでいるのか、ちょっと心配になりました。





在原業平の歌でよく知られているのが

千早ふる 神代も知らぬ 竜田川 からくれなひに 水くくるとは

からころも きつつなれにし つましあらば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

私は後首の方が好きです。^^ 
無量寿寺は小学生1年の頃に遠足で来たことがあります。花を愛でるなんて気持ちなどないものだから、細い小道で皆で走り回っておりました。お弁当の時間になりお茶を飲もうとしたら水筒の蓋が開かなくて、男子にも試してもらったけど駄目で、半ベソをかいていたら校長先生がニコニコして近づいて来て「開ける時は左にまわすんだよ」そう言って簡単に開けてくれました。「こうちょうせんせーっ!すごい!すごい!」なんて皆で大騒ぎして校長先生を取り囲み纏わりついて、さぞかし喧しかったでしょうに、私たちのグループの隣で一緒にお弁当を食べてくれました。一人一人のお弁当を覗き込んで、「これは海のものか山のものかわかるかい?」なんて質問して、窓際のトットちゃんの先生と同じでした。私のお弁当の中にあった「ちくわの磯辺揚げ」を指差して、「これはどっちだと思う?」と聞かれ、「山のもの?」っと見事に外してしまいましたが(笑)。あの遠足以来、皆校長先生が大好きになって、授業と授業の間の休憩時間(愛知ではこれを『放課』といいます。)に校長先生を探しに必ず校庭に出るようになりました。いつも中庭とか観察植物の場所で草取りばかりしている先生でした。
ワイシャツの袖をまくり、首にタオルを巻いて麦藁帽子を被っているのが私たちの校長先生でした。今の時代、そんな校長先生いるのかな。。。

世間ではGW。今年は有給と併せて10連休なんていう企業も多いのでしょうが、我が社は例外です。
この間に3試合もホームゲームがあるもんだから、いつもより忙しいし何より慌しくて落ち着かないのだけど、何故かこういう時って、布団から出られなくなっちゃいます、、、完全なる現実逃避です(笑)。

5月4日のACL戦、この日は快晴。ピーカン。一気に気温が上がった感じ。
4月中旬にもなれば、例年であれば名古屋地方は暑いくらいになるものですが、今年は下旬になっても肌寒いことが多く、朝晩は上着が必須だったのに。
そのためか、選手の足も止まりがちでハラハラしましたが杭州緑城(中国)に辛勝し、グループステージ突破を決めることができました。
スタメンを張ってる主力の4人が怪我で出られないとなると、今までは全く勝てませんでしたが、層が厚くなってきたという感じがします。ほんっとに勝てない時期が続きましたので、感慨深いです。。。

この日も私はちびっこ対応。ホームの選手をエスコートする11人とアウェーの選手をエスコートする11人の、総勢22名。
さぞかし騒がしいかと思いきや、肩透かしなくらいに大人しくて行儀のいい子供達ばかりで助かりました(笑)。
その日のエスコートスポンサーさんが、子供達を自社のHPで募集(先着順)してくれたところ、開始10分で終了だったそうな。ありがたいことです。
選ばれた子供達は、誰もがその日初めて会う他人同士だったので、一緒に騒ぐ子も居なくて大人しくなっていたみたいです。
新一年生の子達はまだ赤ちゃんみたいに小さくて、140センチのユニフォームがぶかぶかで(笑)、着替えも覚束ないのだけど、初めて会ったのに大きな子が手伝ってあげたり、自然に協力し合ってるのを見ていると、本当にホッとした気分になります。

「みんなね、グランパスの選手と手を繋ぎたいのはわかるんだけどね、今日は、相手チームの選手のエスコートも手伝って欲しいの。だから、グランパス側になるか杭州緑城側になるか、二人一組になって一回勝負のジャンケンをしようね。負けた子がグランパスで、勝った子が杭州緑城ね。」

こういう時、アタシが絶対ルールになっちゃうので、申し訳なく思ってしまう。実際に何時までも駄々をこねる子もいるし。けど、この日は誰も文句を言いませんでした。ちょっとびっくり。
子供達の順番と立ち位置、集合写真撮影と退場の合図を教えてリハーサル。
凄い、完璧。何だ、今日の子供達の意識の高さは!(笑)

またウォーミングアップする選手達のすぐ近くまで行って、大音量の応援を聞かせ、唖然とさせる。
新一年生の男の子が気分が悪くなってしまい控え室で休む事態になってしまったけど。
天気が良かったから暑気当たりかなぁ、、、と心配していたら、どうも

「集合時間に遅れるから、アナタ先に一人で行きなさい!」

ってお母さんに強引に駐車場で車から降ろされ、緊張と心細いまま現在に至り、悲しくなって気分が悪くなっちゃったみたいです。
見ると顔も青白くなってて、頬に触れると冷たいんだな。。。
うーん、これは大事をとって、エスコート参加を止めた方がいいかとご両親に連絡すると、お母さんは心配そうだったけれど、お父さんは、「絶対に参加させてください、なぁに、絶対大丈夫ですって!」だって。
うーん、どうすりゃいいんだろ、、、でもさ、やっぱりめったに無いことだし、一生に一度しかないことかもしれないし、、、よしっ、父ちゃん、その気持ち受け取ったーーーぁっ。
なんて一人で気合を入れて、その子を励まし、盛り上げ、なんとか参加することができました。

セレモニーが終わり、子供さんを親御さんの元へ連れて行き、最後にスポンサーさんからのプレゼントがありました。
なんと、その日使ったユニホーム(シャツ・パンツ・ソックス)一式のプレゼントだけでなく、グランパスのゲームTシャツを選手のサイン入りでプレゼントしてくれるって言うんだから、太っ腹です。
サインに応じてくれた選手は11名。一人2枚ずつサインを入れてくれて22枚。
ランダムに配るので、誰のサインTシャツかは、貰ってからのお楽しみです。

Tシャツを配られた子供たちが、「誰のサインだろう。。。」ってわくわくしながら包装を開けるのを見るのは、とても楽しかった。^^

「えっと、これは誰?」

「16番はケネディ、7番は中村直志くん、32番は田中隼磨くん」

んで、やっぱり全くわからないお母さんと子供さんが、アタシんとこに来て、

「このサインは誰のものですか?」

と聞いてきました。確かに、サインを見分けるのは難しいかも。私でもよくわからないんだから(笑)。

「あ、これ、楢崎選手のだよ!凄いね。よかったね!!」

子供さんにそう言うと、お母さんが

「今日、この子、玉田選手と手を繋いでいたんですよ!大ファンだったから、私まで嬉しくなっちゃって、とてもいい思い出になりました!」

嬉しそうに話してくれました。
玉田選手と手を繋ぎ、楢崎選手のサイン入りTシャツを手に取ったお子さんは、小2くらいだろうか。
ずっと口を真一文字に結び、とりわけ無口で大人しい子でした。
あんまり楽しくないのかなぁ、それとも緊張しているだけなのかなぁ、、、と思っていたけれど、エスコートの後はニコニコしてくれて、Tシャツのサインが楢崎くんと知って一気に笑顔が弾けました。
彼だけでなく、どの子もどの子も。

「今からはがっつり、グランパスの応援してねっ!!」

っと皆に声をかけて、お別れ。みんな、また絶対に来てね。

そしてまた運営本部に向かう時、さっきのお母さんに呼び止められました。
玉田選手と手を繋ぎ、楢崎選手のサイン入りTシャツを貰った子のお母さんです。
何度も何度も「ありがとうございました」と頭を下げておっしゃってくれるんです。

「実は、あの子が大好きだった伯父さんが、ホントについ最近自殺しちゃったんです。。。それでね、あの子も落ち込んで笑わなくなって、、、あの子のお姉ちゃんもショックで不登校になっちゃって。。。」

衝撃の告白に、とにかく腰が抜けるほど驚いてしまい、思わずお母さんの手を握っていました。そんなのってないよ。。。

「どうしてやることもできなかったんです。。。けれど、今日はあんなに嬉しそうに、、、立ち直るきっかけになると思います。本当にいい思い出になったと思います。どうもありがとうございました、ありがとうございました。」

お母さんもホッとして、久しぶりの笑顔だったのかもしれない。
あの子が笑えなくなるくらい、お姉ちゃんが不登校になってしまうくらい、可愛がってくれた伯父さんだったのだろう。大好きな伯父さんの、その重すぎる死を、これからどう受け止めていくのだろう。
私が姉のように慕っていた従姉を亡くしたのは高2、養父を無くしたのは高3だった。二人とも重篤な病気だったので覚悟はしていたものの、立ち直るのにどれほどの時間を要しただろう。。。
それなのに、この幼い子はどう感情の処理をしていくのだろう。

なんだか悲しさと同時に猛烈な怒りがこみ上げてきて「ふっざけんじゃねーよっ!いいかげんにしろよっ!」とぶつぶつ、ぶつぶつ。何に対して怒っているのか、悪態をついているのかわからない。そのことにもイラつく。
なにもかも社会が悪いと言うつもりはないけれど、なんだろう、この沈鬱で閉塞した雰囲気が元凶なのだろうと思うけれど、その正体はなんだろう。。。

身近な者の死は、大人ですら容易に消化できないのに、小さき者はどうすればいい?
自然に被災地の子供達のことを思う。
それだけじゃない、それだけじゃなくて、決してそれだけじゃなくってさ。。。

東北の被災地の子供達は、避難所でもよく笑っているけれど、ホントに本当の笑顔なんだろうか。
カメラの前だから、無理して笑っているんじゃないだろうか。泣いてもいいのに。
軽薄な映像と無意味な番組しか撮れず、被災から2ヶ月も経とうとしているのに、何もしてくれない不自由な生活を強いているのは国、その国を治めているハズの政治屋さんという大人達に怒ってもいいんだ。

そして伯父さんを亡くした僕は、散々泣いて悲しんだら、思いっきり笑ってもいいんだからね。
遠慮がちに笑わなくていい。
笑いたいときは笑えばいいし、喜びたい時は喜べばいい。
こんな時こそ素直でいて欲しいな。。。

green thumb = 緑の親指 = 園芸の才に長けた人 の意

今思うと、遠い昔のようで本当だったのかと疑ってしまうけど(笑)、結婚していた頃、南向きの中古の小さなマイホームを手に入れて、日当たり抜群の庭で草木をいじっていたこともありました。
園芸初心者だったので、小さな草花ばかりだったけど。
生垣に山茶花を埋け、アーチから玄関へのアプローチにマリーゴールドで飾り、ウッドデッキにビオラとポーチュラカの鉢植え。
庭の奥に山椒の木と紫陽花・牡丹、その手前に多種のハーブ、もっと手前には勿忘草と桜草。アーチの両側には沈丁花と金木犀だったかな。

見事な薔薇を咲かせた誰かさんとは大違いだけれど、初心者のワリには、どの植物も皆ぐんぐん成長しました。
季節ごとに美しく花を咲かせ、目に鮮やかで香り芳しく、植物に触れるのが楽しくその成長が嬉しい毎日でした。

そんな頃に2度目の転職で採用されたのが、地元の中古自動車屋さん。
展示場は広くショールームは燦々と明るくて好印象。

だったのですけどね、、、ディスプレイされている観葉植物が、どれもこれも無残な姿を晒しておりました。
それだけでリースしているのではなく、創立記念とか、売り上げ達成の褒章として贈られたモノだとわかる。
私は当時26・7歳で、まだまだ若いと思っていたのに、従業員の大半が20代前半(笑)。
販売と修理工場もあった会社で、整備工場で働いているのは、高校中退したり喧嘩ばかりしているような
「やんちゃ」なコ。
なんだか怖い印象のコ達ばかりだったので、こんなオバサンなど受け入れてもらえないだろうと出勤の初日から、正直、気分が重くなりました。

その、やんちゃなコが多い整備部門に配属されて、そこの経理を任されたのだけれど、仕事が無い!(笑)
市街地からは離れているし、展示場は広いものの、目玉になるような車はほとんど無い。
車検や修理のために来るお客さんなど、月に20件あるかないか。
一日一人お客さんが来る程度だったので、業務の引継ぎと説明など初日の半日で終わってしまい、後は暇で暇で退屈で退屈で、事務所を眺めてぼーっと過ごしただけ。

やっと退社時間になったのだけど、周りには誰も居ない。勝手に帰るワケにもいかず、時間をもてあましていたところ、整備のベテラン社員さん(おじいちゃん)が、

「今日は初日で気疲れしただろう?早く帰って休むといいよ」

そう声をかけてくれました。

整備部門のコ達は、皆受け持ち車両の整備のために、その日も夜遅くまで残業だと教えてくれたので「はて?帳簿を見ても、車検や修理のお客さんなんて居ないのに、何故残業するのか」と怪訝に思いながらも、その日はとっとと帰宅。さーて、明日から何して暇を潰そうかと考えながら。。。

翌日から1週間、ただただ、整備部門の事務所内の掃除に勤しみました。
壁面収納、小さなキッチン、冷蔵庫に溜まった汚物(としか言いようのないもの)、食器類、古い伝票の整理とファイリング、電話についた手垢も、入り口のガラス戸も、あらゆるところを徹底的に掃除して磨いて、誰にも文句を言わせないほどピカピカにしてやった。。。ってか、それほど暇だったのだ(笑)。

さて、その次は、ここにある数鉢の観葉植物。どの木も、枯れ木同然の姿だった。
寄贈されたのが何時かはわからない。
その時と同じラッピングがまだ鉢を被い、その中に溜まった水は臭気を放っておりました。
もう駄目かもしれない、、、と思いつつも、「どうしてこんなになるまで放っておいたんだっ!」って、なんだか無性に腹が立って、ラッピングを剥がし、中に溜まった水を捨て、枯葉と枯れ枝を大胆に切り落とし、それから丹念に水をやりゆっくりと様子をみた。
何鉢も、何鉢も。

1ヶ月後、どの鉢も緑を取り戻し、ベンジャミンもカポックも、青年の木も、青々とみずみずしい葉をつけ元気になりました。

「生きていた!」

既に朽ちたように枯れていた木々も、死んではいなかった!
日に日に元気になっていく観葉植物を眺めるのが、とても嬉しかった。

自宅でどんどん増えるポーチュラカとベゴニアを株分けして、会社の受付カウンターに置いてみたところ、その頃から来客が格段に増えました。
それが入社2ヶ月くらい経った頃だったでしょうか。

「○○さんって、緑の指持ってるね。」

い・か・に・も・「やんちゃ」そうな整備部門の男の子が私に向かい、にっこりと笑ってそう言ってくれました。
驚いてしまって、

「たまにはお水あげてね。」

そう言うと、

「いつも冷たい麦茶用意してくれてありがとうございます。みんな感謝してます。」

だってさ。

ちょっと怖くて近寄り難かったのだけれど、実はとても素直で真面目な子達ばかり。

少しずつう打ち解けてくれて、悩みを話してくれて、実はワンマンな同族会社に対する愚痴を聞いて慰めているうちに、皆が弟のような存在に思えて放っておけなかった。
「箱根攻めしよう!」ってことで、霧深い中を無謀にも走り回ったこともあったっけ。
ドリフトの極意(?)としてサイドブレーキの操作を教えてもらったこともあったっけ。

もう15年も前の話だけれど。近寄り難いくらい、眼に冷たい光を放っていた当時の彼らの給料は、手取りで11万だった。

これは背徳とも感じつつ彼らに転職を勧め、私もその会社を去った。
長い時が経ち、もう連絡しあうことも無くなってしまいました。

「green thumb」が私にあるなどとは、さらさら思っておりません。
眼前の命ある者を、オブジェと勘違いしない限り、誰もが緑の指を持っているはず。


私はそう信じる。
そうあって欲しいと、強く念じる。
だから祈る。。。



帰り際に、今シーズンのスタジアムグルメの試食品(余り)を「夕食にいかがですか?」などと言われ、数ある試作品から「たこ焼き」を選びました。
思えば、ここ数週間食欲が湧かなくて、野菜たっぷりの豆乳スープばかり。ロクな夕食を摂っておらず一月で体重が3キロも減ってしまい、クラクラしていたところ。

冷め切った「たこ焼き」なんざまるで欲してはいなかったけれど、「ちゃんと食べてますか?」の後輩の言葉にほっこりとなりましてデスね。。。えへへ。
いただいた「たこ焼き」を手に会社を出ようとすると、同僚が「そのお洒落な紙袋の中身は、実は『たこ焼き』でしょ~」と突っ込んでくる。

へ?お洒落な紙袋ってなんだろ?

そう思い、指摘された紙袋を見てみると、鮮やかなスカイブルーに「TIFFANY」とあった。

「たこ焼き入れて何が悪い!」と思いつつ少々笑ふ。

殺伐とした中で、久々に感じた green thumb だった。
少し元気を取り戻すことができました。少し持ち直しました。

ありがとう。。。
私なんぞが癒しを求めてどうするっ!(笑)
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